かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「かなしみの羊水 」楢﨑古都

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 まるで、かなしみの羊水に溺れてしまったみたいだ。
 ぬるい水にあおむけの体で浮き沈みしながら、依子はおもった。

 たまに口元へかぶるプールの水はなめらかで、カルキ臭もやわらかい。たゆたっていると、コースを泳いでいくひとの水をかく音が、わずかな波とともにからだにつたわってくる。五感をすべて水の中へゆだねてしまうと、外界との接点は閉ざされて、自分自身の輪郭をも忘れてしまいそうになる。

 身をひるがえして水中をすすんだ。すると、どこからともなく魚の気持ちに包まれて、依子は全身をうろこに包まれた生き物へと姿を変える。努めて物を考えず、深くもぐって水をかく。いま、依子がなりきっているものは、この世へ生まれでる以前の海を、憂いを帯びたむなびれで泳いでいたものなのである。

 祖母が亡くなった朝も、恋人が去っていった晩も、依子は変わらず温水プールに沈み、ひそかに泣いた。ひとの体温よりも、あまってしまった時間よりも、ここでかなしみを重ねていた方が、ずっと簡単に立ち直れた。ひとりきりで生きている。そのことを溺れるたびに自分にいいきかせ、毎日、毎日くりかえした。

 呼吸をとめて、意識をなくして、やがていのちを亡くしたとしても、わたしはくらげの亡骸ほどうつくしく、ここにとどまることはかなわない。

 だから、依子は魚になって、対峙しなくてはならない世間をひょろりひょろりと身をかわしながら生きてきた。明日もあさっても、もしかしたら三か月先も、自分の仕事は決まらないかもしれない。そのうち貯金も尽きて、この町にすらいられなくなるかもしれない。

 でも、正直なところ、それならそれでよいのかもしれない。求めなければ、必要以上にかなしむことは少なかった。かろうじて、彼女をささえていたものが、ひとつ、またひとつと失われていくのを、依子はだまって見送るしかなかった。ひとも、場所も、なくすごとにさらさらと記憶からもこぼれ落ちていった。

 依子には、もはやかなしみのありかがわからない。ただ、ここはほかよりも居心地がいいのだ。

 平泳ぎでへりまでいき、クロールで一往復ゆっくりと泳いだ。そこに引かれているラインの上をずれないよう、気をつけながら。途中で、何度かひとをよけたが、誰かに急かされたり、ぶつかられることはなかった。泳ぎきってしまうと、ほんとうに自分にはもう何も残されていないのだな、と芯からすとんと気が抜けた。

 死んだ魚でさえ、その目に死という確固たる意志をもって見えるのに。けれど、まさか依子に、そんな気概があるはずもなかった。

 プールから上がると、天井まであるガラス窓から差し込む光が、濃いオレンジ色をたたえて、依子のからだを照らした。太陽がすっかり傾いていた。西日を受けて、目をつむる。まぶたの裏があかくそまっていた。

 足元に、かなしみがみずたまりをつくっていく。依子はそれを見下ろして、心底名残惜しく想った。

 水泳帽を外し、塩素できしんだ髪の毛を手櫛でほぐすと、さらにいくすじかの悲しみが流れた。

 魚はものなんて考えない。

 依子は自分に言い聞かせる。ひとあしごと、弾力のあるゴム製の床を踏みしめながら、頭を振って、しずくをはらった。はらって、さっそく顔をあらわした不安やら焦燥やらを一緒によそへとおいやる。

 だいじょうぶ、大丈夫。

 依子はもう一度、自分自身に言い聞かせた。

 そうして、また明日、ここへ戻ってくるまでのあいだ、さりげなくふるまう過ごすすべを思い出す。

 かなしくなったら、魚の気持ち。

 伏せせた目じりとくちもとが、にわかにゆるんだ。

 

 2009年10月19日

お題「わたしの黒歴史」

 

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