めぐるたび思いだす季節
忘れてしまう。
1か月前の満月を、とても低い位置で見たこと。
目の錯覚で、これまでに見たことがないくらい巨大な満月だった。
夕闇の少し手前、夕焼けの終わり、薄紫から群青へ向かうグラデーションの空色を、満月が明るく照らしていた。
ちょうど、幼稚園が併設された教会の向こう側にそれを見たんだ。
わたしちゃんのせかいには月がふたつあるのだけれど *1、きょうのお月さまは輪郭が澄みきっていた。
見えるときは見えるの。
わたしたちは、きっとなにも残せずにいつか灰になる。
それはかなしいことかな。
あのね、きょう、月を見かけたら、わたしはわたしが肉体をもっていることが、ひさしぶりにふしぎになって。
踏切を渡っているときで、線路の向こうに月がのぼっていくところだった。
わたしには、自分が毎日乗っている電車を設計できないし、飛行機が空を飛ぶ揚力と気圧の関係が未だによくわからないし、朝から晩まで使っている職場のシステムにはむしろこちらが使われているような気がするし、世の中に踊らされながら、運よく便利にまみれて生きていて、便利は温暖化とか異常気象とかをもたらしていて、それは全世界規模で大問題になっているのだけど、わたしたちはひきつづき、あらゆる自分では生みだせない便利を享受して生きて、それはいつか自分の肉体を滅ぼしてゆくことにつながっているらしいのに、それはいますぐ自分に訪れるわけではないらしいから、畏れるのは天災天変地異の方で、ほんと、自分勝手だなあ。
四季はいつのまにか等分ではなくなって、桜が散ってしまったらもう夏じゃん! なんて話し、以前旅行先で鉢合わせた流暢な日本語を話す海外からの観光客男性からは、日本の季節は4つじゃなく5つじゃないか、どうして梅雨を雨季として数えないんだ、と激しくつめよられて疲弊した。
あのとき、わたしはきちんと説明ができなくて、よくよく考えたら夏をはさんで雨季はふたつあるようなものだなと秋雨前線のことをおもったのだった。
季節のことを、おもいだすのは再びめぐってきたときで、もしもふたたびめぐってこなかったら、わたしは、きっと忘れていってしまうのだろうな。
だから、文章でなんとか描写しようと試みたり、切り取れる一部分を写真として残したいのかな。
わたしはいつか、それらもぜんぶなくして、いなくなって、せかいもおわって、そうしたら、また思いもよらないバタフライエフェクトが起きるのかな。
写真のつつじはもう散ってしまって、撮りそこねた小川沿いのコデマリとモッコウバラも終わってしまった。いまはすっかり葉ばかりに。
桜の樹が、あの満開のピンクを見せるまで、そこにあったことをわすれてしまっているのとおなじように、咲くまで気づかなかった。
そしてまた、来年まで忘れてしまう。めぐってきてくれるまで。
おやすみ、いまはまだ、めぐる季節のあるせかい。
*1: