かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

くじらの歌う唄-03(2)楢﨑古都

 

  男の顔には表情がなかった。怒りや悲しみを内に抱えているようでありながら、口元や頬は引きつった笑みを浮かべていた。何もかも見透かされている気がした。わたしが毎晩のように寝てきた男たちの中に、もしかしたら死んだ男もいたかもしれない。数えきれない男たちの腕がわたしを捕まえ、身動きとれなくさせようとする錯覚にとらわれて、吐き気がした。
「祥子ちゃん、ごめんな。顔青いわ、気持ち悪い?」
 京子はわたしの冷えた肩を抱き、からだを揺らしながら、怖い夢を見た子どもをあやす母親の声音で、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とくり返した。寄りかかり目をつむると、京子はブランケットをふたりのからだにかけ直してくれた。布に包まれ、閉じ込められた体温はわたしの緊張をほぐした。
 秒針の刻む時間だけが、わたしたちのすべてだった。どちらからともなく抱きあい、やわらかな肌に頭をもたげた。何者も、わたしたちを邪魔することはなかった。
「人のからだって、ほんとはだかで抱きおうたときの方が熱いくらいなんやな。なんやこないしてると、冬眠してるシロクマの親子にでもなったような気分やわ」
 わたしは小首を傾げ、そのつづきを待つ。
「シロクマって、真冬に出産するんよ。雪でできた穴に冬ごもりしながら、お母さんグマは赤ちゃんグマを産むんやって」
 京子は姿勢を直して、わたしがからだを預けやすいようにソファの端へ寄った。
「親子で寄りそうて、春を待つねんよ。まんま、いまのうちらみたいやな、思うて」
 夕暮れが、窓から遠く、町の喧騒を聞いていた。
 いまわたしたちがいるのは、自ら閉じこもった二人きりの空間だった。海沿いの、風下の斜面に掘られた穴の中に縮こまり、いつ来るとも解らない春を待ち続けているシロクマの親子だった。足りない者どうし、欠落した部分を補いあい、慰めあうため、本能的に求めあっていた。
 ブランケットに埋もれ、京子とうたた寝しているときが、わたしにはなにより幸福な時間だった。

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-03(1)楢﨑古都

 

 京子は立ち上がると、一枚の封筒を手にして戻ってきた。淡いピンク色の中から出てきたものは、子宮内のエコー写真だった。陽にも焼けていない、か細い身体つきからは想像もつかない真っ暗な空洞が、そこには写しだされていた。
 粗い白黒の素描の中に、小指の先ほどの影が浮かんでいた。唐突に、わたしは彼女の子宮をまったくの別次元の空間として捉えていた。唐突に、わたしは彼女の子宮をまったくの別次元の空間として捉えていた。人のかたちをとるよりずっと以前の、手も足もない豆粒の影は、生き物というより単に縁取りをされたものでしかなかった。
「男の子か女の子かなんてのも解らへん。二ヵ月過ぎたかくらいの頃やってん」
 ソファに横たわる京子のお腹に、わたしはブランケットをかける。
「最初、赤ちゃんできてしまったって気いついたときはな、周りに頼れる人も相談できる友だちも、誰もおらんくて、ほんまどうないしていいんか解らへんかった。お医者さん行くまで、堕ろすとか生むとか、そういうあたりまえのことも考えられへんかって。でもな、この写真もろうて、これが心臓よって教えてもらった帰り道な、くうちゃん、ああ、この子産もうって思ったんよ。お金とか生活とか気にしとったけども、そのどれよりも先に、もう赤ちゃんはくうちゃんのお腹の中におったんやもの」
 京子は写真の奥の生命に触れ、それからわたしの下腹部に手を置いた。体温の重なりあった部分が、内側から低温火傷でも引き起こしたような熱を持ち、直接命が吹き込まれていくかのようだった。
 あの日、踏み切りで死んだ男は、線路に飛びだす直前にわたしの胸をわし掴んでいった。わたしのほかにも、掴まれた人がいたかもしれない。突き飛ばされ地面に膝をついている人の中に、大人の男はいなかった。
 わたしには、犯罪心理学だとか死を覚悟した人間の胸中なんてものは推し量れやしない。けれども、去り際に男と自分の視線とが確かに交錯していたことを、さっき京子に胸を包まれたとき、わたしは思いだしてしまった。伸びてきた男の武骨な痛みは恐怖を遅れて実感させ、脳裏に張りついた顔のない顔は引き剥がすことができなくなってしまった。

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-02(3)楢﨑古都

 

 

 お腹をさすっていた京子の指先が、わたしの髪を撫でた。うなじに触れ、喉元から鎖骨、さらには左胸へと下りていく。瞬間、身ぶるいして我慢できずに抱きついた。胸には彼女の手のひらがあてがわれている。京子はそらそうとしたが、わたしはしがみついて離さなかった。
「祥子ちゃんの心臓、どきどき言うてるなあ」
 耳元でため息をついた京子の声がふるえた。小刻みに伝わってくる振動が、わたしのものと重なっていた。捉えどころのない悲しみが、触れる髪のにおいや、感じる体温から滲みでていた。
「あかんわ。こんなん、どうしよう」
 顔を向きあわせ、お互いの顔を見つめると、みるみるうちに瞳が涙に溺れた。頬をつたう線が、わたしの手のひらをびしょ濡れにした。
「あの日、くうちゃん、赤ちゃんしなせてしまったんよ」
 踏み切りを待っていて、いきない後ろ髪を掴まれた。京子はバランスを崩し、肘から地面に叩きつけられた。片腕の関節から下にかけて、いまでも傷跡が残るほどに皮膚を擦りむいたのだった。
 誰かの悲鳴が耳をつんざき、男は踏み切りに飛び込んで、電車に跳ねられた。鼓膜を刺す急ブレーキの音が病むまで、京子は顔をあげることができなかった、とわたしに話した。
「祥子ちゃん、遮断機のすぐそばに立ってたやろ。見つめている先を追って、目が離せなくなった。そしたら急にお腹が痛くなって、その後はもう、気い失ってしまって何も覚えてない。気がついたら、病院のベッドの上で、残念ですがって言われてしもうてん」
 一人で、目覚めたのだろうか。空っぽになったお腹に手を置いて、京子は医者に言われるより先に気がついたに違いない。くちびるから漏れる訛りのある話し言葉は、彼女の深刻さをわざと少しでも軽くしようと試みているかのようだった。
 わたしはあの日、それまで動いていたものが、ある一瞬を境に活動を止めるまで経過を、はじめて目にしたのだった。
 京子はわたしの胸に顔を埋め、やがてところかまわず、くちづけはじめた。服の裾からもぐり込んでへそにキスし、脱がしながら二の腕にキスした。二人掛けのソファに並んで上半身はだかになり、もうこれ以上キスする箇所がないというくらい、お互いのからだにくちづけあった。冷え性の京子の指先は、ほんのりと赤味を帯びてふくらみに触れ、わたしの鼓動はそれを迎えた。
 わたしたちは何かから身を守るため、手をつなぎあい、キスをし、抱きあい、涙を拭いあった。二人きりで群れをなして、襲ってくる者たちの侵入を拒んでいた。それは世間であり、お金であり、人の心であり、異性としての男たちであった。

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-02(2)楢﨑古都

 

 

「祥子ちゃん」
 京子がわたしの名前を呼ぶのを、どこか遠く、懐かしい気持ちで聞いた。
 京子の仕事が休みの日だった。窓からの風に、ときたまレースのカーテンが揺れていた。骨ばった手のひらが、ゆっくりと子宮のあたりを往復していた。放心したような姿をみるのは初めてで、わたしは彼女が気がつくまでのあいだ、しばらく黙って一緒にお腹をさすってやっていたのだった。
「半年前、すぐそこの踏切で事故があったやろ」
 京子はそっとわたしの手を取り、窓の外にちらりと視線をやった。
 あれは、一人の男が起こした白昼の飛び込み自殺だった。突然、後ろから駆け込んできて、女、子どもを次々と押し倒していった。一帯はコマを追うごとにスローモーションになり、音は真空に飲み込まれていた。遮断機をくぐり抜け、急行列車が止められたところで、ようやくわたしは現実に引き戻されたのだった。
「あそこにな、あの日、くうちゃんもおってん」
 京子はさすっていた手の動きを止め、わたしの顔を見つめた。驚いて、わたしもその顔を見つめ返す。
「あの日、祥子ちゃんもあそこにいてたやろ」
 白目を向き、死という一点のみを見据えて、男はわたしを突き飛ばしていった。
 あのとき、わたしは唾を飲み込もうとしてうまくゆかず、喉の奥は声を失ってしまっていた。
 京子は目をつむって、ゆっくりと鼻で息を吸い、ぎこちなく二度に分けて肺の中のものを吐きだした。
「みんな悲鳴上げて、怒鳴ったり、泣き叫んだりしている中で、祥子ちゃんだけがじっと黙って、踏切の中を見つめてん」
 京子の指先が爪を立て、私の手首を握りしめた。痛さにそらした視線が、否応なしに引き戻される。逃げられないよう、きつく繋ぎとめられてしまった気がした。
 わたしは決して、見つめてなどいたわけではなかった。喉は空気が素通りするばかりで、口の中はからからに渇き、息を吸うごとにほこりが器官にひっかかった。声を発したくて、本当は必死になっていた。いくら腹膜に力を込めてみても、からだはやり方を忘れてしまっていた。人々の叫び声ばかりが耳に刺さった。
 わたしは目を見開き、悲惨な状況の一部始終を凝視した。悲鳴をあげるために、目の前の男が必要だと信じて疑わなかったのだ。男の死より、声の出ないことの方がわたしには大問題だった。声を上げなければ、わたしに助けはやってこない。顔のない父が覆いかぶさってくる暗闇が、脳裏に浮かんでいた。息苦しさと違和感に眠りを妨げられたわたしは、ずっと口をふさがれていたのだった。

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-02(1)楢﨑古都

 

  京子は大抵、深夜遅くにおぼつかない足取りで帰ってきた。お客に飲まされているのかと思ったら、そうではなかった。お店からマンションまでの道のりは、途中のコンビニで買った缶ビール一本では持ち堪えられないという欠点があった。空になるたび、京子は来た道を買いに戻っていたのだった。憑かれたように、一本だけ、一本だけ、とつぶやいて、マンションとコンビニのあいだを何往復もしていた。

 帰りが遅いのを心配になり迎えにいくと、祥子ちゃあん、としなだれかかってきて、その場に座り込んでしまうこともしばしばだった。空き缶を途中のゴミ捨て場に並べてくるので、いくつも道に転がっているのを誤って蹴飛ばしてしまったりした。

 筋肉のついてない京子のからだは思った以上に軽々しく持ち上がり、痩せた肉のかたまりをおぶったわたしの背中に伝わる感触は痛々しく、まるで十九才の女の子のそれとは思われなかった。

 ベッドに下ろすと、寄りそって横たわり、向けられた背中に冷えきった肌を這わせる。心臓の音が聞きたくて肩を揺すると、眉をしかめた表情でこちらへ寝返った。

 わたしは、頭を京子の胸の位置にあわせて息を吐く。力の抜けた京子のからだはひそやかな寝息をたて、一層小さく見えた。お世辞にも豊かとは言い難い胸に耳をあてがうと、わたしはようやく眠ることができるのだった。

 わたしが毎晩、一緒に眠る相手を探していたのは、腕の内側に人の体温が欲しかったからだ。父と過ごした数年間は、わたしをひどく孤独に、一人では眠れなくさせた。

 京子と出会うまで、それはずっと、男でなければ埋められない穴だと信じていた。体温を分けてもらう代わりに、わたしは自分を提供しつづけた。けれど、いくら寝てみても完全に満たされることはなかった。男たちが一様にわたしのからだを求めてくるのと裏腹に、触れられれば触れられるほど、むなしさは増してゆくばかりだった。

 京子がお酒を飲んでしまうのは、酔ったときにしか平気な顔で過去といまの自分とを向き合わせることができないからだ。忘れてしまいたい恐怖と、忘れてしまうわけにいかない悲しみが、彼女の内側でつねに影を落としていた。

 たまに京子は、うわの空で下腹部を撫でていることがあった。だらりとソファに沈み込み、焦点の定まらない視線で宙を見つめていた。顔色ひとつ変えない彼女の様子は、まるで男たちとの行為の最中にある自分自身を俯瞰している気がして、声をかけることができなかった。

 

 

お題「好きなビール」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-01(4)楢﨑古都

 

 京子は、決してつくり笑顔で他人と接しているわけではなかった。けれども、集団にまみれたあやふやな一面は、確かに彼女の内にもあった。
 ネオンで照らしだされた現職の繁華街を、丈の短いスカートで歩きまわる女の子たち。男たちに媚びを売り、いつでもどこでも化粧をなおしては、崩れた言葉づかいでもって噂話のさらなる、邪推を生んでいる。誇張されたワイドショーの片隅で、近頃の若者とまとめて形容されてしまう一人であることに変わりはなかった。
 男を求め、毎夜、繁華街へ繰りだしていたわたしも、例外ではなかったのかもしれない。
 わたしが中学へあがってすぐ、母は家を出た。
 両親は、顔をあわせるといつも口論していた。何が二人をそうさせたのか、それは解からなかった。ただ、父母とはそういうものなのだと、物心ついた頃には、すでにそう思っていた。諦めという感情が入り込む隙は、はじめから存在しなかった。
 残されたわたしは、父に気に入られることに必死になった。怒鳴られたり、打たれたりといった暴力は一度も受けなかった。父はただ、眠っているわたしのパジャマを脱がせ、隠れた部分を撫でた。
 最初、わたしにはそれが、どのような意味をもつものなのか理解できなかった。父は決して自分では服を脱がなかったし、わたしのふくらみはじめた胸に触れることはあっても、それ以上は踏み込んでこなかった。
 身を捩らせると、父はわたしを抱きしめてくれた。
 当時の記憶は、いまではもう断片的になってしまっている。父とのそれは、高校に入るまでつづいた。異性とつきあうようになり、痛い思いをするまで、わたしは一度も父を拒まなかった。
 はたして、わたしはあの暗闇の中で、毎晩父に犯されていたのだろうか。
 忘れ去りたい記憶として、葬り去ったわけではない。気がついたら、忘れてしまっていたのだ。再び、こうして思い起こされるまで。
 京子はかばんに化粧ポーチと携帯電話、生の一万円を突っ込んで立ち上がった。
 咄嗟に、彼女の服の裾を掴む。首を横にふり、懇願するわたしの肩を、細い腕が抱きしめた。エアコンで冷えたからだは、わたしの持つ際どさよりももう少し冷たく、深く重たいものに感じられた。
「じゃあ、いってくるね」
 黙って手を離す様はまるで、聞き分けのよい子どものそれだった。
 そうしてわたしは、毎夕出かけていく京子の後ろ姿を見送り、扉の向こうにミュールの踵が高い音を響かせて帰ってくるのを、何時間でも待った。

 

お題「わたしのアイドル」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

 

くじらの歌う唄-01(3)楢﨑古都

 

 血液が頭の芯から清流のごとく引けてゆく感覚は、まるでランナーズハイにでも陥ったかと思わせる気分にさせた。気持ちよさは一瞬で、直後わたしは握られた手首を振りあげ、やけに頼りない腕に掴みかかっていた。

「あんとき、祥子ちゃん地べたに丸まってたんよ。すごい力でくうちゃんの腕、握り返してきたんやから。離してくれんし、連れて帰ってくるよりほかに、仕方なかってんから」

 トイレで何度も吐き、下着を借りて、おなじベッドで眠った。そうして、なおざりなまま二日経ち、三日経ちしても、一向にわたしが部屋を出てゆこうとしないのを、京子は別段問いたださなかった。

「まあ、くうちゃんもおんなじようなもんやしなあ。帰るとこないんやったら、ここにおったらええよ」

 京子が暮らしていたのは、家賃五万円のキャバクラ寮だった。マンションは繁華街を雑居へと一本入ったところにあり、バス・トイレ別、冷暖房完備のオートロック付きで、必要な家財道具は一通り揃っていた。

 高校を中退してからずっと、京子はここで暮らしているらしかった。

「くうちゃん、これでも結構有名なお嬢様学校通うてたんやで。ほとんど行かんと辞めてしもうたから、いまはもうお馬鹿ちゃんやけどな」

 九階のベランダから見下ろす街並みは、夕闇に染まる電飾のためだけでなく、人々の話し声でにわかに気色ばんでいく。下着姿で鏡台の前に座り、髪を巻いたり、ビューラーで睫毛を上げたりしながら、京子は何人ものお客に電話をかけた。

 なあ、今日は来てくれはるのん? 来てくれはらんのん。うん、うん。そうか。え、ほんま? もちろん、ええよ。ほんなら、くうちゃん待ってるね。うん、うん、また後でな。

 京子の話す調子は、わたしに話しかけるときとなんら変わりない。好きな人と、デートの約束でもしているかのような茶目っ気さえうかがえた。仕事だから、と割りきった風でもなく、言いかえれば、彼女の明るさには底がなかった。箸が転がっただけでも笑うような性質で、だから最初は気がつかなった。

 対象と真正面から向きあっているように見えて、その実、京子はすべての事柄を直前で落下させていた。淡々と一度目の前を通過させておいて、適当な脚色を加え、話していた。会話は中身のないクルミの殻となり、打ちあわせては乾いた音を鳴らすばかりだった。

 似たようなフレアのワンピースドレスを何着も姿見の前であわせては床に投げ、たっぷり三十分は悩んでその日の一着を決める。背中のファスナーはこちらへ向け、上げて、と乳歯かと見紛う前歯をのぞかせた。アップにした髪の後れ毛を留めるためのピンを口の端にくわえながら、彼女はいじらしく言った。目のふちにくっきりと入れられたアイラインは、黒目がちな京子の瞳をいっそう際立たせた。

 お店の中は暗いから、少しくらいお化粧は濃いめの方がかわいらしく見えるんよ、とセルリアンブルーの魚はその身をひるがえした。

 

お題「今日の出来事」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」