かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

くじらの歌う唄-02(2)楢﨑古都

 

 

「祥子ちゃん」
 京子がわたしの名前を呼ぶのを、どこか遠く、懐かしい気持ちで聞いた。
 京子の仕事が休みの日だった。窓からの風に、ときたまレースのカーテンが揺れていた。骨ばった手のひらが、ゆっくりと子宮のあたりを往復していた。放心したような姿をみるのは初めてで、わたしは彼女が気がつくまでのあいだ、しばらく黙って一緒にお腹をさすってやっていたのだった。
「半年前、すぐそこの踏切で事故があったやろ」
 京子はそっとわたしの手を取り、窓の外にちらりと視線をやった。
 あれは、一人の男が起こした白昼の飛び込み自殺だった。突然、後ろから駆け込んできて、女、子どもを次々と押し倒していった。一帯はコマを追うごとにスローモーションになり、音は真空に飲み込まれていた。遮断機をくぐり抜け、急行列車が止められたところで、ようやくわたしは現実に引き戻されたのだった。
「あそこにな、あの日、くうちゃんもおってん」
 京子はさすっていた手の動きを止め、わたしの顔を見つめた。驚いて、わたしもその顔を見つめ返す。
「あの日、祥子ちゃんもあそこにいてたやろ」
 白目を向き、死という一点のみを見据えて、男はわたしを突き飛ばしていった。
 あのとき、わたしは唾を飲み込もうとしてうまくゆかず、喉の奥は声を失ってしまっていた。
 京子は目をつむって、ゆっくりと鼻で息を吸い、ぎこちなく二度に分けて肺の中のものを吐きだした。
「みんな悲鳴上げて、怒鳴ったり、泣き叫んだりしている中で、祥子ちゃんだけがじっと黙って、踏切の中を見つめてん」
 京子の指先が爪を立て、私の手首を握りしめた。痛さにそらした視線が、否応なしに引き戻される。逃げられないよう、きつく繋ぎとめられてしまった気がした。
 わたしは決して、見つめてなどいたわけではなかった。喉は空気が素通りするばかりで、口の中はからからに渇き、息を吸うごとにほこりが器官にひっかかった。声を発したくて、本当は必死になっていた。いくら腹膜に力を込めてみても、からだはやり方を忘れてしまっていた。人々の叫び声ばかりが耳に刺さった。
 わたしは目を見開き、悲惨な状況の一部始終を凝視した。悲鳴をあげるために、目の前の男が必要だと信じて疑わなかったのだ。男の死より、声の出ないことの方がわたしには大問題だった。声を上げなければ、わたしに助けはやってこない。顔のない父が覆いかぶさってくる暗闇が、脳裏に浮かんでいた。息苦しさと違和感に眠りを妨げられたわたしは、ずっと口をふさがれていたのだった。

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

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