くじらの歌う唄-04(3)楢﨑古都
くじらの歌う唄-04(3)|楢﨑古都@kujiranoutauuta #note #熟成下書きhttps://t.co/dr8Tc3Sy9X
— ✿すいすい✿ (@kujiranoutauuta) 2020年3月17日
外国の、あまり広くはない砂浜だった。黒い流線型のかたまりが、何十体も波打ち際に打ち上げられ、並んでいた。それは、クジラの集団座礁だった。
クジラは回遊の途中、病気や体力の低下、または浅瀬に指しかかると方向感覚を失ってしまうことがあるという。浅瀬では集団全体が距離感を勘違いし、誤って浜辺へと乗り上げてしまうらしい。一方、弱った個体を連れたクジラの群れでは、共に生きてきた仲間を見捨ててゆくことができず、解っていながら間違った方向へと一緒に泳いでいってしまうというのだった。
「そばを離れられへんから、みんな一緒にしんでしまう方を選んでしまうんかなあ」
京子の言葉は、かすかに自らの死の匂いを醸していた。
個体同士の絆が強く、ヒトにも近い感情をもつといわれるクジラ。もし、京子とわたしがあの踏み切り事故の直後にこうして出会っていたとしたら、いったいどうなっていただろう。つないだ手のひらの理由は寄りそう安心感ではなく、不安定な欲求にしかならなかったかもしれない。わたしたちはお互いにお互いを、道連れにしていたかもしれない。
「一緒にしねて、しあわせなんかなあ」
京子は呼ぶことのなかった赤ん坊の名前でわたしを呼び、わたしは京子をママとさえ呼んでいたかもしれない。たとえ、望んで宿したわけではなかったとしても、重さは同じに違いなかった。わたしは生まれてから捨てられて、京子の赤ん坊は生まれる以前に流されてしまった。
けれども、時間の影響力は知らぬ顔で死という焦燥を風化させ、一切の気力を萎えさせた。
抱えた膝にあごを乗せると、持ち上がった服の裾に背骨がのぞいた。パッションフルーツとムスクの、甘酸っぱく深い香りがわずかに立ちのぼった。
「クジラは好きやけど、こういうところは嫌いやわ。動物のくせに、まるで人間みたいやんか。なんで、こんなことしてしまうんかな」
クジラはなぜ、海の底で文明をもたなかったのだろう。ヒトに匹敵するくらいの高い知性を持ちながら、いったいわたしたちと何がちがっていたのだろう。
太古の昔、一度陸へあがり、ふたたび海へ帰ってしまったのは、潮の流れが胎内に似て心地よく感じられたりしたからだろうか。人は生まれたら、二度と海へは帰れない。
京子はからだを倒してわたしに寄りかかり、方に頭をもたげた。
オーストラリアだかどこだかの浜辺で、同時に何十頭もの個体が打ち上げられて、瀕死の状態に陥っている。街の人々による懸命の救助活動もむなしく、クジラたちの死亡が確認されてゆく。いまさら、助けることもかなわない。
お題「#おうち時間」