「夜のななふし-03(2)」楢﨑古都
夜のななふし-03(2)|楢﨑古都 @kujiranoutauuta #note #熟成下書き https://t.co/deUEt3e4AQ
— ✿すいすい✿ (@kujiranoutauuta) 2020年1月2日
飲むの、と胸元にコーンスープを差し出したら、口を開けて頷いた。熱い缶を膝の上にのせ、袖口を手のひらまで引っ張り上げて両手で持つ。プルトップが開けられず、先に開けたもう一本を手渡してやると、吹く風に赤く染まった頬が控えめにゆるんだ。少しずつ飲んだコーンスープはかじかんだ手のひらを熱くし、食道を通って胃の中をじんわりと温めた。
ちらちらとこちらをうかがって行く通勤者たちを横目に、私たちは食事をすませる。食べ終わった幼稚園児に促されて、立ち上がった。
握りしめられた片手は握り返さない。でも歩調は、歩幅の狭いハルキと合わせている。私一人ならば十分程度の道のりを、倍の時間かかって幼稚園まで歩く。私がハルキに歩調を合わせるのはこのときだけだ。時間通りにハルキを幼稚園へ送って行って、園児たちの母親に出くわしてしまうのが面倒だった。
私はわざとハルキを遅刻させる。だから新米の幼稚園教諭は今日も私に小言を言う。
「黒田さん、集合は八時半だっていつも言ってるでしょう。ちゃんと時間は守ってください。」
幼稚園教諭の職業病なのか何なのか知らないが、彼女の喋り方は誰に対しても子ども相手のときと基本的に変わらず、聞いていてとても疲れる。すみません、と頭を下げてみせたりしながらも、私はその喋り方にいつも閉口してしまう。ひらがなの音でばかり発音するから、声のトーンにしまりがないのだ。
「あなたも学校があるから大変なのはわかるけど。でもこの時間じゃ、あなただって学校に遅れてしまうんじゃないの。」
どうせ行ってないんでしょう、という蔑みが目に浮かんでいた。しわくちゃのセーラー服を無遠慮にねめつけ、わざとらしく彼女はため息を吐く。ハルキの服装までは、もう呆れてか注意もしなくなった。水色のスモッグはところどころ食べ物の染みがついてくすみ、膝丈半ズボンの下でたるんだ靴下はちぐはぐだった。
せんせい、と下駄箱から数人の甲高い声が彼女を呼ぶ。はぁい、と返事をして、みんなお教室で待っててね、と笑顔が諭す。いい子ぶりを見せつけたい一心の園児たちは、素直に返事して駆けて行く。
園児たちの溌剌さはハルキには無縁のものだ。うまく喋れないのに加えて、背格好も同年代の子どもたちに比べてひとまわりは小さい。来年小学校へ入学しても、集団の中ではたしてうまく立ち回れるかどうかは疑問だ。もしかして、ランドセルの重みでひっくり返ったりするんじゃなかろうか。そうしたら、私は思いっきり笑ってやる。
「それじゃ、おあずかりします。」
私の元から離れたハルキは幼稚園教諭に手を取られる。まるで物みたいな言い方だ、と思った。目は見ずに、お願いします、と形式的に頭を下げて、私はハルキに背を向ける。
ハルキはきっと、私の姿が見えなくなるまでそこで私の背中を追っている。やがて少し強く手を引かれて教室に入るが、しばらくは窓の外ばかり気にして名前を呼ばれても振り向かないだろう。子どもの熱い体温で握りしめられていた左手が、指の感触を覚えていた。