かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「夜のななふし-02(2)」楢﨑古都

 

 エレベーターで降りていくときから私の腕にしがみついていたハルキは、公園へたどりつくとようやくその手を離した。つまらせた鼻を音を立ててすすり、私の顔を仰ぎ見る。水色のスモッグは、セーターの上から重ね着されているにも関わらずまったく着膨れしていなかった。まるで寸胴の袋をかぶせただけみたいな格好に見える。あごで、行っていいと指し示すと、ハルキはジャングルジムの方へ駆けて行った。
 細っこくて危なっかしい手足でジャングルジムによじ登っていくハルキに、ふと無性に腹が立った。どうしてあいつは、あんなにもう楽しそうに遊んでいるのだ。どうせ登ったって、てっぺんまで到達できるわけでもないくせに。木製のベンチに腰かけ、私は煙草を吸うという行為のために火をつける。保護者を気取った妙なプライドで半分演技がかった吸い方をしたら、一口目で大げさにむせた。ハルキが何事かと驚いてこちらを振り返るのが分かったが、私はすまして二口目を吸い込んだ。そして吐き出す。ベンチの背もたれにはりついたななふしが、じっとこちらを見ていた。
 親父から逃げ出したところで、私たちにあてなどなかった。結局またあの部屋へと帰るしかないことを、ハルキも知っている。だからなのか、ハルキは舟をこぎはじめてもなお遊びつづける。大体いつもそのくらいが潮時で、私は眠りに落ちる寸前の幼児の手を引いて帰るのだ。絶対に、抱き上げてやったりなんかしてやらない。
 掴んだ手は寒さに冷え切っていた。頭が支えを失って落ちては起き上がり、落ちては起き上がりを繰り返した。手を離したら、その場に崩れ眠りこんでしまうだろう。やっとエレベーターに乗り、壁面に肩を預けた。ハルキは二の腕を私に支えられぶら下がっている。玄関まで何とか歩かせて、物音がしないのを確かめてから鍵を回した。
 リビングのドアを開けると、暖かい空気とともに一斉に酒の匂いが身体を包んだ。窓から入ってくるわずかな明かりで、親父がソファの横にのびているのが見える。カーテンは開けられたままだ。ひどく耳障りないびきだけが、静まり返った室内で不規則な呼吸をつづけている。
 私はリビングを抜けた自分の部屋にハルキを先に連れていき、スモッグとズボンと靴下だけ脱がせて布団にもぐりこませた。リビングへ戻って暖房を切る。カーテンを閉めて、暗闇の中部屋まで戻ろうとしたとき、足が親父の身体に躓いた。起こしてしまう、と慌てる一方で、この男の肩口を心底蹴飛ばしてやりたい、と思った。でもすぐに気持ちは萎えてしまう。自分の足指の先が、ほんの少しでもこの男の体に触れてしまうことの方が、鳥肌が立った。
 暗闇に慣れた目を凝らして部屋へ戻った。鍵を閉めて、自分もベッドに入る。隣でかすかに寝息をたてている小さな身体に触れてみると、ほのかに温かかった。

 

お題「今日の出来事」

 

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