くじらの歌う唄-04(5)楢﨑古都
くじらの歌う唄-04(5)|楢﨑古都@kujiranoutauuta #note #熟成下書きhttps://t.co/kd29HVh4gL
— ✿すいすい✿ (@kujiranoutauuta) 2020年3月16日
やがて、周回していたメスも去ってゆき、京子の手からは力が抜けた。自由になった腕をさすりつつ、京子のまぶたに手のひらを下ろす。京子は、追い込まれたクジラだったのだろうか。ブラウン管に照らしだされた暗がりが、しっとりと湿った肌の感触に息をひそめた。横顔が涙にぬれていた。
眠ってしまった京子の前髪を寄せ、額にくちづける クジラが去った後の青い画面から発せられる光は、わたしを夜の底に一人置いてきぼりにさせられた気分にさせた。カメラの前にクジラは現れない。京子を起こさないよう気をつけて、リモコンに手を伸ばした。テレビの消音設定を解除する。
低く透明な和音が長引き、鼓膜の周辺を不思議な音色がこだました。共鳴は波紋となり、時の間に海中をすべった。海の底からというよりむしろ、わたしたちを包む大気、海水そのものが共鳴し、旋律を発しているようだった。
青い光に包まれて、思わず泣いてしまいそうになった。それは、クジラの歌う唄だった。踏み切りのイメージがよみがえる。メスを奪いあい、目的を果たす姿を見てしまった後だけに、鳴き声のもつ神秘性は特別なものを帯びて聞こえた。
男は真っ白い布でくるまれて、遮断機のそばに横たえられた。男の目に、わたしはメスとして映っていたのだろうか。あの事故からしばらく、わたしの左胸にはくっきりと男の手形が痣となり残っていた。掴まれた不快感は下着を外すたび思い起こされて、わたしはあわてて見知らぬ男のからだにしがみついた。。
毎晩のように不特定多数の男たちと抱きあった。不感症な自分の冷たさを隠すために、必死で相手のからだにくちびるで痕を残した。ひとつひとつに、わたしは声の代わりに舌を使い、誤魔化すために演じつづけていた。
大勢の中のひひとり、という隠れ蓑が欲しくて、わたしはますますメスになり下がった。男たちはみな欲しがり、よろこんだけれど、わたしは少しも元に戻れなかった。早朝の車内から大小さまざまな景色の連なりを見渡すたび、わたしは建物の向こう側にある人々のつながりに加わりたい気持ちでいっぱいになった。
集団にまみれ、男たちに媚を売って、わたしは顔もなく見分けもつかない人間になりたいと願っていた。そこに、わたしという人間の意思は必要なかった。黙ってついてゆけば、食べるものも、眠る場所も、みんな男たちが用意してくれた。わたしはただ、彼らの言いなりになっていればよかった。「こんなところに寝ていたら、やられてしまうで」
夢うつつに、髪の長い、細っこい影が現れて、ずいぶん声の高い男だと思った。また殴られるか、蹴られるかするのではないかと怖くなって、わたしは今度こそやり返してやろうと思ったのだ。
「あばれんでも、くうちゃんは女の子をこんなとこに置いてきぼりになんかせえへんよ」
クジラの唄は、死んだわたしをクジラにした。どこにいるの、と呼ぶクジラに向かって、わたしはここにいる、と泣いて答えたのだ。
規則正しい京子の寝息がわたしの涙とまじりあい、二人の場所をしめらせていた。結局わたしは、膝の上に京子を寝かせたまま自分も眠ってしまった。遠くから、ずっとクジラの鳴き声が聞こえていた。それは子守唄よりも静かに、深く夜の底にこだましていた。
お題「#おうち時間」