かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「朝行く月-07(2)」楢﨑古都

 

 校舎沿いの並木道と正門を通り過ぎ、豆腐屋の角を曲がって坂を登る。突き当たったところを左に折れると、そこに彼のアパートがあった。夏前に一度つれて来てもらったきりだったが、すんなり辿りつくことができた。
 冬晴れに布団を叩く音がこだましていた。会談を上りながら、洗濯を済ませてくればよかったな、と光のとけた空を仰ぐ。
 油性ペンで「児島」と書かれた表札は、お世辞にも達筆とはいえない辞退で、ところどころに書き重ねられた跡があった。
 指を置き、一瞬ためらってから呼び鈴を押す。二度、三度と続けて鳴らした。かすかな物音がして、人の気配が感じとれた。
「順平」
 居留守をつかわれたくなくて、恥ずかしげもなく外から呼びかけた。
 寝ているなら起こすつもりで、再度呼び鈴を鳴らす。今度は意地が、もう一度呼ぼうとする喉を黙らせた。
 一枚隔てた向こう側で何かが崩れる音がして、それから鍵穴が回った。ゆっくりとドアが開かれる。
「順平、あんた何してるの」
 待ちきれず、じれったさにノブを引いた。重たく横たわった空気のかたまりが、一歩踏み入れた途端に押し寄せてくる。いったい何度に設定されているのか、部屋はフル稼働の暖房にすっかり支配されていた。
「ちょっと、どうしたの」
 玄関にへたり込んでいる彼がいた。驚き、立ち上がるのを支えようと腕を回す。全身が熱を持ち、気怠くほてっていた。反射的に額へ手のひらをあてがうと、冷え切った指先が彼の体温にふるえた。
「大丈夫」
 かけた言葉は、発したそばから空回る。ベッドの脇でCDラックが倒れていた。自分の足でベッドまで戻った彼の、横たわるのを手伝って布団をかけてやると、首筋に青く浮き出た血管が見えた。
 散乱したCDケースにまぎれて、空になった清涼飲料水のペットボトルが転がっていた。充電の切れた携帯電話は脱ぎ捨てられたトレーナーとジーンズに埋もれ、カーテンは一切の光を遮断していた。整頓が行き届いていたはずの室内は、彼を中心としてすっかり秩序を失っていた。
 送風口から、絶えることなく温風が吹きだしてくる。これだけ暖房が効いていても寒いのか、布団の中で彼がタオルケットを体に巻きつけているのが分かった。
「いつからよ」
 何をすればよいのか咄嗟に思いあたらず、会話に答えを求めてしまう。
「月曜、」
 か細く枯れた声は、荒い息に負けていた。話しかけるのも気が引けるほどで、私はそれ以上何も聞けずに台所へ向かった。

 

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「朝行く月/水に咲く花」

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