かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「水に咲く花-09(3)」楢﨑古都

 

 母さんは食器を全て洗いあげると、エプロンで手を拭いてテーブルの椅子へ腰掛けた。連れだって台所を出ていくついでに、わたしは冷蔵庫から麦茶を取りだし、まだ雫の残るコップになみなみ注いだ。両手に持って、ひとつを母さんの前へ置いた。
「気がきく」
「のろけ話は長そうだからね」
 相手の男性は母さんの勤務先へ三年前に転勤してきた、離婚経験のある人だった。
 ふと気になって、子どもはいるのかたずねた。
「ううん。娘がいるって話したら、照れてたわ」
 どこかで胸をなでおろしている自分がいた。
「結婚するなんて、いつ決めたのよ」
 ちゃんと恋愛してたんだ。
 思って、自分がまるっきり子どもだったことにため息が出る。わたしはほんとうに安易だった。
「いち子が成人するのを待ってたのよ。まあ、大学受験が終わって、一段落するのを待っていたっていうのが本音かしら」
「そうだったの」
 心配かけました、とわたしは頭を下げた。さらにのろけ話がつづくかと思っていたら、神妙な声でこう言われた。
「いち子、母さん結婚してもいい」
 言われたこっちが照れくさく感じた。
「何をいまさら。自分でするって言ったんじゃない」
「応援してくれる」
「わたしが反対するわけないでしょ。よかったじゃない」
 すっかり少女に戻ってしまった母さんは、ありがとう、と微笑んだ。おなじ顔を、いつか見たことがあった。お乳を飲む赤ん坊を見つめていた父の顔。脳裏から、消えることはなかった。
「いいことにも悪いことにも、いつまでもとどまっていちゃダメなのよね。新鮮な水だって、流れなきゃ腐るんだから」
 ずいぶん突飛な連想だと思った。けれど、いまの母さんなら、と妙に納得してしまう。
「これでやっと、おばあちゃんも安心するわ」
「しょっちゅう、お見合い写真見せられてたもんね」
 当時を思いだして、顔がほころんだ。
「いまの言葉ね、」
 テーブルに置いた朝顔の種をいじりながら、母さんは庭に目をやった。
「とどまってちゃいけないってやつ」
「そう。ここへ帰ってきたとき、おばあちゃんに言われたの」
「そうなの? 覚えてない」
「男運がないって言われたすぐ後よ」
 母さんはしたり顔で麦茶を飲みほした。私はコップの縁をくちびるにあてたまま、母さんの話を反芻する。
「よかった頃を思いだして過去にひたっていても、失敗をいつまでも悔やんでいても、どっちも落ちこむばかりでしょう。おばあちゃんはずっと、わたしたちのことを心配してくれていたけれど、それでも死ぬときは幸せそうだった」
 事実、最期のとき、祖母はとてもしあわせそうだった。気品さえただようたたずまいだった。
 これで、やっとあの人に会えるよ。

 

お題「プロポーズ」

 

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