かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「水に咲く花-04(1)」楢﨑古都

 

 祖母の家へやってきて一年と半年ほどたった頃、わたしは一度だけ自分から父に会いにいったことがある。確か母さんと些細なけんかをした後で、仲介役の祖母も家を空けていて、無鉄砲に飛びだしていってしまったのだった。
 父は最初、とても驚いた顔をした。無理もない。だけど、なにも言わずに、以前はわたしの家でもあったところの敷居を跨がせてくれた。見覚えのある家具と、見知らぬ小物類が入り混じった、奇妙な空間がそこには広がっていた。他人の生活や、息づかいといったものが靴を脱いだそばから鼻腔の奥に充満してきて、ひどく不安になったことを覚えている。
 家には父と、女の人と、赤ん坊とが暮らしていた。
 わたしは以前とおなじように、なにが食べたい? と尋ねられ、下を向いた。女の人は喫茶店で浮かべていた満面の笑みとは違い、恐る恐るといった雰囲気だった。わたしは首を横に振り、ひたすら麦茶を飲みつづけた。
 しばらくすると眠っていた赤ん坊が目を覚まし、堰を切ったように泣き出した。何事が起きたのかと、確かわけもわからず心底焦った。しかしわたしの心配も何処へやら、母親は愛おしそうな顔で赤ん坊を抱き上げ、おなかすいちゃったのねえ、と服の裾をまくった。
 泣き方でわかるらしいんだ。
 父は、自分にはわからない、と小首をかしげ苦笑いしながら言った。
 赤ん坊にお乳をやる光景なんて、わたしは生まれて初めて目にした。父の顔がとても幸せそうで、自分自身が無性にいたたまれなくなった。
 赤ん坊は乳くさい匂いがして、人間とは思えないほど柔らかかった。人差し指を差しだすと、人形のような、けれども決して人形ではない熱い五本の指がひしと掴む。その力強さに全身が固まった。
 ベビーベッドに寝かされた赤ん坊は私の指を握ったまま眠ってしまい、どうすればいいのかと立ちつくしていたら母親がかんたんに指をほどいた。湿り気のあった赤ん坊の手とは違い、女の人の手はすべらかだった。
 晩になって、さすがにお腹も鳴りだした頃、祖母が迎えにきた。わたしは一目散にそばへと駆け寄ると、帰る、と一言口にした。もう、父の顔はふり返らなかった。
 おなかの虫が鳴ってるねえ。何か食べて帰ろうか、いち。この辺りで、おいしいお店を知ってるかい。
 わたしたちは洋食屋へ立ち寄って、オムライスを食べた。
 赤ちゃん、可愛らしかったねえ。
 祖母は目元に皺を寄せながら、真っ赤なケチャップをスプーンでまんべんなく全体に伸ばしていたっけ。

 

お題「思い出の味」

 

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