かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

夜のななふし-04(2)楢﨑古都

 

 玄関には鍵がかかっていた。冷えきった家の中に親父の姿はすでにない。マンションの玄関口にも、家の前にもハルキはいなかった。
 連絡網の中から、送ってくれた子の家の電話番号を引き出す。ハルキがいないことは伏せて、帰って来たときの様子を聞いた。案の定、いつもと変わらなかったわよ、という返事が受話器から届く。どうしたの、何かあったの。いえ、何でもないんです。今日は有難うございました。ホームルームが長引いてしまって。いいのよ、それじゃあね。失礼します。
 別れたのはマンションの玄関口で、ハルキはそこで私を待つと答えたらしい。どこかへ時間を潰しに行ったのかもしれない。それなら夕方になってお腹が空けばきっと帰ってくる。心配する必要はない。公園にもいなかった。私には探しに行くあてすら思い付けなかった。
 飲みかけのウィスキーがローテーブルの上に散らかったままだ。ボトルの中身を全部、幹が編まれた観葉樹の大鉢に注いでしまう。濃厚なアルコールの香りが音をたてて土から立ち昇った。コップを洗って、水切りに置く。テレビをつけてソファに沈んだ。夕方のニュース番組はうるさいばかりで頭に入ってこない。頻繁に入るCMのたびにチャンネルを回した。十分ともたずテレビを消して、私はハルキを探しに家を出た。
 今度こそと思って公園を覗く。けれど、やっぱりハルキはどこにもいない。マンションから幼稚園への道のりをもう一度たどり、何の成果も得られずに引き返した。顔にかかって邪魔な髪の毛を手首のゴムでひとつにまとめ、辺りを見渡す。行きは歩いて向かったのが、帰りは走らずにいられなかった。どうしていないんだよ。空がだんだん夕方のかげりを見せ始める。薄闇が視界を遮る。
 こうこうと店内を照らすコンビニの明かりが、ぽつねんと浮かんでいた。近づいていくと、少し暗がりになったところに人影が見える。店員が前かがみで誰かに話し掛けていた。
「黙ってちゃ分からないよ、ぼく。ママは? いないの。」
 ため息と批難の入り混じった一方的な会話だった。慌てて正面に回りこむ。黄色い通園かばんを肩からななめがけにした、貧弱な幼稚園児がうつむいていた。
「すみません、この子に何か。」
「君、この子のお姉さん? ダメだよ、ちゃんと見てなきゃ。この子が何したか分かってるの。」
 店長らしき四十過ぎの男性店員は、かがめていた姿勢を私に合わせた。店員の視線がそれると同時に、この子は私のコートにしがみつく。
「ぼく、それをおじさんに渡そうね。勝手に持っていっちゃいけないんだよ。」 
 ハルキを見下ろしながら言ったその言葉は、しかし私にあてて言われたものでもあった。抱きかかえるようにして握りしめられた何かが、ハルキの腕の中で音を立てた。

 

お題「今日の出来事」

 

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