私たちが共有する秘密、やがて涅槃 、それはわたしとせかいをつなぐクモの糸かしら。
根っこがにょきにょきしてきたら、ハイドロカルチャーにしようかなあ。
道ばたで摘んできました……
ここ1~2週間、梅雨というか天候の変化が日々著しくて、
それも半日で上がったり下がったりするから、夕方になるとなかなか……
なかなか、しんどいです……
ガールズランチに参加しなくなって、そろそろ半年経つのか、はや。
最近、お昼休みはTEDを観ている。
Depression, the Secret We Share | Andrew Solomon | TED Talks
ちょっと、感情移入してしまったな。
「愛」なんて単語、日本人のわたしには馴染みがなさすぎて、
どうにもしっくりこないのです、相変わらず。
実家は浄土真宗なので、それぞれ偶然の出会い。
毎朝礼拝堂で讃美歌を謳い、聖書の一節にふれ、講話を聞いた。
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愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
――コリントの信徒への手紙(第13章4~7節)
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中学2年のときの学級担任は新米の英語教諭で、クリスチャンだった。
そしてこの節を、彼女はこう解釈しているとわたしたちに話した。
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ゆりは忍耐強い。ゆりは情け深い。ねたまない。ゆりは自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
――コリントの信徒への手紙(第13章4~7節)
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花の名前をもつひとだった。
当時は、癪に障る物言いだと、聖書にも先生に対しても感じた。
けれど、いまになって思いだし、腑に落ちるように感じるのは、
ヨガに心酔したからかしら。
ヨガは至極当然の道徳的観点からはじまっていて、数々のポーズは
どれも自分自身をより集中に向かいやすくするための手段であり、
自我を超えたさき、たどりつくその概念は無為自然のさらにさき、
仏教でいうところの涅槃に近いんじゃないかしらと考えている。
TEDからの連想ゲームにしては、突拍子もない?
でも、きっとひとぞれぞれ、思考回路の多様性なんて、こんなもの。
だから、わたしたちは他人の考えていることなんてわからないし、
わたしたちはわたしたちのことでさえ、まともに説明なんてできない。
最期のときだって、そんなもの掴めるとも限らない。
わたしのカルマは、今生においてこんなにも底辺に立ちどまっている時点で
この先も幾星霜のときを重ねなければならないことでしょう。
ああ、カルマもヨガ哲学のなかに出てくるのです。
わたしたちはいくどもの生を生きることを許されている。
それが、途方もなく長いくり返しだとうんざりするか、
思考の果てへとゆきつくための、与えられた時間だと思うか。
おやすみなさい、 わたしとせかい、糸引くきずな。