かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「夜のななふし-02(1)」楢﨑古都

 

「ユキちゃ、」
 意志の弱いおびえたような声で、遠慮がちに私の名前を呼ぶハルキのことが、私は心の底から気に食わない。読んでいた雑誌をソファの足元へ放り、携帯電話の液晶画面に視線を落とす。わざとONにしたボタンの確認音が邪魔だった。
「ユキちゃん、」
「ちゃん付けで呼ぶな。」
 あ、と声を漏らして口ごもり、目だけせわしなく動かして何か言いたそうな視線を投げかけてくる。言葉が遅れている、と思う。
「あの、」
「うるさいな、なに。」
 にらみつけると、下を向いて目をそらした。肩からななめにさげた通園かばんに両手を突っ込んで、さっきから何やらごそごそと中身をいじくっている。
 パステルイエローの通園かばんは、やせたハルキの身体には不釣合いだった。水色の帽子とスモッグも、その体格をいっそう貧相に見せている。幼稚園から帰って来たきり、今日はいつまでも服を着がえようとしない。
 いったい何を出ししぶっているのか、通園かばんのひもを半ば強引に引っぱったとき、何の前触れもなく玄関のドアノブを無理やり回し、こじ開けようとする音が響いた
 親父だ。ドアノブが大きな音を立ててひねくり回されている。こちら側から鍵を開けてやるまで、酔って帰って来たときの親父はいつもこうなのだ。ハルキの肩がびくりと震える。私は通園かばんから手を離して玄関へ向かった。ハルキは納戸へ逃げ込む。
 酔った親父の馬鹿力に対抗して、一度ドアを正位置に戻してからどうにか鍵を外してやる。同時にドアは勢いよく開いた。土足で家の中へと踏み込んでくる。足音が家中を歩き回る。
 階下の住人は先月引っ越して行ってしまった。気の弱い老夫婦は私たちに優しかった。自分たちだけでは食べ切れないからと、多めに作った煮物や炊き込みごはんなんかをよく分けてくれた。しかし、いつも予告なしに降ってくる騒音に耐えかねていた。このマンションは親父の不動産だから、所有者に向かって出て行けとも言えない。随分と良くしてもらっていたのに、もう二度と会うこともないのだろう。
「水持ってこい。」
 廊下から様子を窺っていた私を血走った目でにらみつけると、親父はソファに腰を降ろした。台所でシンクにおかれたままのコップに水道水を注ぎ入れ、ソファ前のローテーブルにわざと音を立てて置く。
「なんだその態度は。」
 伸びてくる腕を後ろに遠退いてかわし、その場を離れようとすると頭ごなしに怒鳴られた。
「それが親に対する態度か。その目は何だ。何も出来ない子どものくせに、態度ばっかりいっちょ前にでかくなりやがって。何様のつもりだ?」
 赤みを増した親父の顔を、私は心底醜いと思う。まだ五時過ぎだというのに、いったいどこでこんなになるまで飲んできたのだ。適当な女でも買って、帰ってなど来なければよいものを。
「おまえには口がないのか。おい、返事をしろ。」
 水を一気に飲み干すと、親父はさらに大きな音を立ててコップをテーブルに打ち付けた。私は台所の床下からウィスキーを取り出し、無言で親父の前に差し出す。たるんだ顔の筋肉がゆるみ、親父は引きつった笑みをうかべた。一口舐めると思い出したように立ち上がり、トイレに入った。そのすきに私は廊下の納戸へと向かう。戸を開けた瞬間、ハルキはひいっと息を飲んで後ずさった。小刻みに震える身体を引きずり出し、強引に手首を掴んだ。足がもつれて転びそうになると、掴んだ手首を持ち上げた。靴を履かせ立ち上がり、音を立てずに玄関を出る。枯れ枝みたいに細っこい指が、私の服の裾をにぎりしめた。一歩外へ出ると、途端に鳥肌が立った。けれど、上着まではおっている余裕はなかった。吐く息が白く溜まって、頬がしびれた。 

 

今週のお題「二十歳」

 

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