かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

くじらの歌う唄-04(2)楢﨑古都

 

 胃の中のものを全部吐きだすと、京子は顔を洗い、歯を磨いて戻ってきた。吐いた後の顔はいつも腫れぼったく涙目で、頬も赤らんでいた。濡れた前髪からこめかみにかけ、拭いそびれた雫が垂れていた。
「祥子ちゃん、これ食べる?」
 京子は決まり悪そうにカップ麺を手に取った。縁に乗せた割り箸を押さえて、いささか鼻をそらせながら湯気をかぐ。わたしは首を横にふって、いらない、と答える。口角を引き上げてみせたつもりだったけれど、うまく笑顔をつくることはできなかった。
「せやな」
 すぐにうなづき、京子は再びカップ麺を脇に押しやった。次に注意を向けられるのは、忘れられたころに誤って蹴りこぼされるか、その前に運よく目にとまり、片付けられるかのどちらかだ。
 簡単に折れてしまいそうな手首足首も、鎖骨の浮きでた胸元も、骨ばった腰回りも、みんな人差し指の直接被害を受けていた。お腹の中にいたはずの命を思いだしてしまうのか、京子は胃が膨れるのを極端に嫌がった。そしてわたしは、それをやめさせる術をもっていなかった。
 イルカの特集を見終わると、今度はクジラの番組を録画したビデオを京子はデッキに入れた。
 大海原に黒いかたまりが姿を現す。潮を吹き、頭から飛びでて、しぶきを上げた。ボートに近づいてきて、海面下から船上の人間を観察している。優雅に一頭で泳いでいるものもあれば、親子で寄りそい、仲間が見守っている光景もあった。小型のクジラたちはイルカと似て群れで泳ぎ、あの子たちはみんな家族なんよ、と京子は教えてくれた。クジラは口から吐きだした泡でネットを作り、囲い込んだオキアミをいっぺんに口の中へと流し込んだ。
 わたしは自分のカップ麺を食べ終わると、ソファを背にして床に座った。京子もクッションを抱え、ソファから降りてくる。手のひらがわたしの甲に重ねあわされ、指と指とのあいだにひしとしのび込んだ。
 触れている手首に線はなかった。けれど肘よりも上、Tシャツの袖で隠れる二の腕の辺りに、傷痕はあった。肌色のサインペンで間違って引いてしまったような染みが、皮膚の上に何十本も残っていた。断つためではなく、存在を確認するためだけに、京子はかつてこれだけの回数がひつようだったのか。暗がりの中で彼女の白さはいっそう青く浮きたち、わたしは思わず目をそらしてしまった。
「あほみたい」
 ふいに京子の言った言葉が、自分に向けられたものかと驚きふり返った。視線は画面の奥を見つめていた。

 

お題「#おうち時間

 

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「くじらの歌う唄/メルヒェン」

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