くじらの歌う唄-01(3)楢﨑古都
くじらの歌う唄-01(3)|楢﨑古都@kujiranoutauuta #note #熟成下書きhttps://t.co/CRPbecOLIf
— ✿すいすい✿ (@kujiranoutauuta) 2020年3月6日
血液が頭の芯から清流のごとく引けてゆく感覚は、まるでランナーズハイにでも陥ったかと思わせる気分にさせた。気持ちよさは一瞬で、直後わたしは握られた手首を振りあげ、やけに頼りない腕に掴みかかっていた。
「あんとき、祥子ちゃん地べたに丸まってたんよ。すごい力でくうちゃんの腕、握り返してきたんやから。離してくれんし、連れて帰ってくるよりほかに、仕方なかってんから」
トイレで何度も吐き、下着を借りて、おなじベッドで眠った。そうして、なおざりなまま二日経ち、三日経ちしても、一向にわたしが部屋を出てゆこうとしないのを、京子は別段問いたださなかった。
「まあ、くうちゃんもおんなじようなもんやしなあ。帰るとこないんやったら、ここにおったらええよ」
京子が暮らしていたのは、家賃五万円のキャバクラ寮だった。マンションは繁華街を雑居へと一本入ったところにあり、バス・トイレ別、冷暖房完備のオートロック付きで、必要な家財道具は一通り揃っていた。
高校を中退してからずっと、京子はここで暮らしているらしかった。
「くうちゃん、これでも結構有名なお嬢様学校通うてたんやで。ほとんど行かんと辞めてしもうたから、いまはもうお馬鹿ちゃんやけどな」
九階のベランダから見下ろす街並みは、夕闇に染まる電飾のためだけでなく、人々の話し声でにわかに気色ばんでいく。下着姿で鏡台の前に座り、髪を巻いたり、ビューラーで睫毛を上げたりしながら、京子は何人ものお客に電話をかけた。
なあ、今日は来てくれはるのん? 来てくれはらんのん。うん、うん。そうか。え、ほんま? もちろん、ええよ。ほんなら、くうちゃん待ってるね。うん、うん、また後でな。
京子の話す調子は、わたしに話しかけるときとなんら変わりない。好きな人と、デートの約束でもしているかのような茶目っ気さえうかがえた。仕事だから、と割りきった風でもなく、言いかえれば、彼女の明るさには底がなかった。箸が転がっただけでも笑うような性質で、だから最初は気がつかなった。
対象と真正面から向きあっているように見えて、その実、京子はすべての事柄を直前で落下させていた。淡々と一度目の前を通過させておいて、適当な脚色を加え、話していた。会話は中身のないクルミの殻となり、打ちあわせては乾いた音を鳴らすばかりだった。
似たようなフレアのワンピースドレスを何着も姿見の前であわせては床に投げ、たっぷり三十分は悩んでその日の一着を決める。背中のファスナーはこちらへ向け、上げて、と乳歯かと見紛う前歯をのぞかせた。アップにした髪の後れ毛を留めるためのピンを口の端にくわえながら、彼女はいじらしく言った。目のふちにくっきりと入れられたアイラインは、黒目がちな京子の瞳をいっそう際立たせた。
お店の中は暗いから、少しくらいお化粧は濃いめの方がかわいらしく見えるんよ、とセルリアンブルーの魚はその身をひるがえした。