逃げ水に溺れた町の思い出と、冷気の底に沈められた過去の記憶。
15才の夏、修学旅行で京都と広島へ行った。
清水寺と銀閣寺と、それから覚えているのは、坂道にあふれる自分たちとおなじく修学旅行生たちの群れ。
どうしてこんな真夏に、京都盆地になんかやってこなくちゃならないんだ、と晴れわたれども逃げ水に溺れる街並みにうんざりしながら、いつもより短くたくしあげたスカート丈、だっさい白のくるぶしソックス(足がいちばん太く見える中途半端なふくらはぎ丈の指定ソックスだった)、厚底ローファーは友だちのそれを真似っこしたんだった。
生八ツ橋は、イチゴ味やらチョコ味やら、確かバナナ味もあったな、抹茶味はまあいいか、なんて偉そうに試食してまわったっけ。
京都は蒸し暑く、おだやかで、甘かった。
それから、ヒロシマへ行ったのだった。
平和記念公園は、どこもかしこももみくちゃだった京都とは打って変わって、ただひたすらにだだっ広かった。
爆心地という単語を知り、原爆ドームを臨んだ。
あれは、まさに直下に建っていたから、印象的な骨組みをそのままに残したのだと。
空は、とにかく青かった。
京都の、人いきれ混じる埃っぽい気怠さ、うだるような暑さは、ヒロシマにはなかった。
もちろん、真夏の太陽は高く、炎天下に日差しを遮るものなどまるで見当たらないその場所で、わたしたちは点呼をとり、各自、原爆資料館を見学後、集合時間まで自由行動である旨を言い渡された。
資料館は、直前までのまぶしさと暑さを一瞬にしてさらってしまうほどに薄暗く、そして冷えていた。
展示物の劣化を防ぐためでもあったのかもしれない。
かろうじて記憶に残っている、資料館のなかは、うすぼんやりとした蛍光灯の白い光に、うすぼんやりと照らされた、黄土色の布の切れ端や、ピントのずれた写真、ふるめかしい水筒、アルミの弁当箱、ほつれた箇所をかがられたリュックサック、そのどれもが息をころし、閉じこめられたガラスケースのなかで、わずかな呼吸を、窒息せぬようくり返しているようにおもえた。
記憶は、もはや大部分がフィクションで、わたしはあの日、資料館のなかで目の当たりにしたはずの原爆投下直後のひとびとの姿、それを直視できなかった15才のわたしという人間の受けた衝撃、それらの記憶も薄れてきてしまっている。
漠然とした不安、冷えきったからだで、一歩踏み出した地面は理路整然とタイルが敷きつめられ、その照り返しが視界を遮り、一瞬、めがくらんだ。
ああ、わたしはここへ戻ってきたのだな、と思った。
過去は、あの3000度の熱線で焼かれた街の記憶は、躍動感あふれる京都のそれとは真逆に、湿った埃っぽさでわたしの両方の肺を満たし、ふと目をはなしたすきにありとあらゆる猛威をふるい尽くすカビ胞子のように、あっというまにこの身に巣食った。
金属をも溶かす高温の熱波が、生身のひとのからだを焼いていた。
わたしはそれを、鳥肌だった半袖の二の腕に両の手のひらをあてがうかたちで腕組みし、ふるえながら見つめた。
わたしは、すでに、なにもかもを与えられたせかいに生まれてきていた。
奪われることも、奪うことも、亡くすことも、亡くなるかもしれないことも、ぜんぶ知らない。
おやすみなさい、せかいは過保護で、わたしは恵まれている。
今週のお題「読書の夏」