書くこと、考えること、理解すること、転化すること
なんだか、きのうまでの文学フリマ2会場への参加というイベントごとが、自分のなかでかなりの一大事だった模様で、終わって今朝目覚めてみたら、ずいぶん気持ちが軽かった。
そしたら、ふんわり思うことがあって。
そういえば、「考える」スペースを創作と準備とで独占させてしまうために、文学フリマに参加するためのサークルを立ち上げたんだった。
言いだしたからには書き上げねばならず、言いだしたからにはやりきらねばならず、5人集まればいいねって話していた女性に限った書き手さんは、箱をあけてみたら10名様も集まってくれていて、これはいっそう、軽い気持ちで臨んでいてはいけないわ、と改めて身が引きしまった。
「書く」ということは、少なからず「考える」ということであって、わたしはずっと「書く」ことで自分の頭のなかを整理してきた。
現実に起こった様々な、そのときどきの自分には「理解できない」出来事をフィクション化し、組み立て直し、物語としてノンフィクションへ昇華させる。
その作業を通して、わたしは「理解する」というよりは「受けいれる」、あるいは「別次元」の出来事として、現実に起きたありとあらゆる「わからないこと」を創作物に転化してきた。
そうして、自分という人間を保ってきた。
この2ヶ月、わたしは「考えない」という方法で自分をまもってきたのだなあ。
「話せない」という状況を職場の上司たちが受けとめてくれたおかげで、わたしはまもられ、「考えない」で済む環境に身を置かせてもらえて、何も変わっていないフリをして、働きつづけることができている。
現状を周囲に「話せない」というのは、やっぱりどうかしているというか、自分自身のこころのすみっこに常にひっかかるものがあって、ときどき思いだして、わちゃわちゃとなる。
「話す」ということは、「考える」ということにつながってしまうから、わたしは「話せない」のだろう。
「考えない」という方法は、わたしにはもう「理解する」必要性、義務、立場、ありとあらゆる可能性、それらすべてがなくなった、という現実を受けとめるための自己防衛手段だったのかもしれない。
相変わらず、「話せる」ようにはならないし、この二カ月で何が変わったかといえば、わたしは平気なフリをするのがうまくなった、「考えない」上手になった。
それから、なにやらやけに物事を俯瞰して、一歩引いたところから、物事の本筋には関わらないように見るようになった。
ふいによみがえってくるかなしみを、わたしは「考えない」ことによって、なかったことにしようとしている。いまは、そうしないと自分が保てない。ひとりでは立てなかったから、寄りかかったのだと思い知らされる。
元にもどっただけ、あのひとはそう言ったのだった。確かに。わたしは元通り不安定になってしまった。元通り以上に不安定になってしまったのは、想定外? からだに力が入らないんだ、困ったね。
連休が終わったら、また毎日があっというまに重ねられていくんだなあ。
掴めないまま、日々は淡雪か霞みたいに過ぎて溶けて消えていってしまう。
なにも変わらないまま。
暮らしてゆくということは、感情を積み重ねていくという行為なのだった。
それがまた、できるようになるなんて、いまのわたしには思いもよらないから、「考えない」 をつづけながら、平気なフリをつづけるのね。
わたし自身は、いつ転化されるのか。いまはなにもできない。
わたしは、わたしちゃんを使って、わたしという自己をまもっている。
おやすみ、せかい。
それは魔法のことばでもなんでもない、すべてをうっちゃって、眠ってしまえば夢かもしれない、ありえない期待が込められているんだろう。
あかん、今朝は調子がよかったのに、こんなことつらつら書いていたら、頭のなかわちゃわちゃしてきちゃった。
なので、おしまい。 おやすみ、せかい。
今日の午前中はこれを観た。映画観れたのひさしぶりだー。
好きだったことを、またたくさんできますように。 本も読みたいぞ。
「なんにもしなくていい」があと1日ある。
明日はほんと、だるーんと過ごそう。