【東京マリーゴールド】及び、島らっきょうと耽る感慨
空っぽ週間なのである。
がんばって朝起きて、がんばって電車乗って、がんばって仕事片付けて、がんばってうちへ帰ってくる。
午後3時くらいまでは、このがんばっているモードで夜も荷造りがんばれるとおもうのだけれど、
帰りつく頃には、あともうお風呂入ってパジャマ着てドライヤーかけられたら、わたしちゃんてばもはやたいそうがんばりましたもうめいっぱい、という底がみえそうながんばるポイントしか残っていなくて、茫然自失としているうち眠らなくてはいけない真夜中深夜。
なんだ今日のこの稚拙極まりない感じは。
ありきたりでかまわないのだった。
けれど、ありきたりではつまらなかったのかな、わたしちゃんたちもしかして。
ねこちゃんを、飼ってしまえばよかったかしらとふいに考えた。
だって、さみしくてさみしくてさみしくて仕方なかったのだ。
昼間ひとりにしておくのがかわいそうで、もうしばらく待とうとおもっていた。
けれども猫は元来夜行性であるし、わたしちゃんたちのかなしみを、もてあましたひとりきりを、そのしなやかな曲線と孤高の気だかさと無我夢中の猫パンチでもって、毎夜軽やかにわたしたちをわずらわせてくれたかもしれない。
ねこちゃん。
1年ののち、ものごとは想像もしえなかった事実をさらりと見せつけてきたりするもので、偶然居合わせたり聞いてしまったり、知ってしまったことの真相を、だけどもう主人公はそれほどの感慨を覚えることもなく、わずかばかりの驚き(それは知り合いの話かもしれないという見知らぬ第三者への親近感)も、やがて忘れてしまえる平易さでバスを降りていく。
今週あたま、そんな映画をみたのだった。ねこちゃんは出てきません。
平凡へ帰ってゆく。
でも、平凡は平凡ではないよな。
過ぎてしまった時間の方が平凡のようで(だってもう経験してしまったから真新しくもなんともない)、明日からの方が非凡でしょう。
わたしはわたしに、なにを言い聞かせたいのか。
いよいよ胸がつかえて呼吸がしづらくなってきてしまっているので、来週の有給休暇で循環器内科を訪ねてみようと思っています。
案外ここを出てしまったら、ぱたりと治まるかもしれないし、残念ながらひどくなるかもしれない。
どちらでも。
ただ、3月になったら何もかもをうっちゃってしまえるのだ、それは願ったり叶ったりなのでしょう。
無理して笑ってしまう自分を知っているし、無理してうまくいくと言い聞かせている自分がいることも知っている。
それでも。
一年ののちには。
わたしたちはやっぱり何者にもなれていないかもしれないし、さっしーみたいに二年前の失敗に感謝して島らっきょう食べているかもしれない。
(※女子旅にて「【指原 移籍】で検索してください」ってすっかり逞しくなったさっしーの開き直りでも投げやりでもないその発言は、わたしちゃんたちには霹靂)
今週のお題「ふつうに良かった映画」