かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

くじらの歌う唄-05(2)楢﨑古都

 

 「祥子ちゃーん、お風呂入ろうよー」
 浴室から、京子が顔を出している。湯舟の蛇口がひねられて、熱い湯の噴きだすのがこちらまで聞こえてくる。わたしは、まだ少し痺れている脛を引きずって立ち上がり、フリーリングに足を下ろす。立つと、土踏まずが床についている気がして、妙な感じだった。それでも一歩ずつ踏みだしてゆくと、徐々に痺れは引いてゆき、浴室のタイルに足を下ろす頃には気にならない程度になっていた。
 湯をためているあいだ、わたしたちはお互いの髪とからだを洗いあった。朝っぱらから、くすぐったい、と身を捩らせては湯をかけあい、背中を流して胸の形を褒めあった。
「なあ、祥子ちゃん。京子と祥子って、なんだかちょっと姉妹みたいやない」
 鏡越しに、京子がわたしを覗いた。すすいでもらった髪の毛が、名残惜しそうに京子の指先に絡んでいる。
「くうちゃん、そしたら祥子ちゃんの妹やね」
 シャワーを浴びた足下を、溶けた泡が流れていく。陽が昇った午前に入るお風呂は、曇りガラスから差し込む光の前で、考え事などどれもどうでもよくしてしまう。浴槽の蛇口は開けたままにして、わたしたちは次から次へとあふれかえる湯舟に浸かった。多少窮屈でも、身動きするたび湯の中で触れあう素肌は、この状況を楽しみ、よろこんでいた。
「そういえば、祥子ちゃん。もしかしてきのうの夜中、クジラの唄聞いとった?」
 わたしたちは向かいあって手をつないだり、離したりしながら、相手のからだを湯舟の中でつっついたり、つまんだりしながら遊んでいた。
「起きてたの」
 お互いの両手を顔の高さであわせて、じっとお互いの瞳を見つめる。にらめっこをしているみたいで、二人とも真剣に笑うのこらえて、一瞬の隙を狙っていた。
「夢の中で聞いとった。いまさっきまで忘れてたんやけど、急に思いだしてん」
 ふいを突いて脇腹に手を這わすと京子は、きゃあ、と水しぶきを上げた。わたしが顔を覆っているあいだに湯舟へもぐり込み、細い指で私の腰に吸いつく。そうして、頭まで一気に湯の中へとひっぱり込まれた。
 湯の中にいたのは、一秒か二秒のことだっただろう。そこは、無音の雑音が満ちた胎盤と化していた。底に眠る記憶は海にただよう原始の生物にまで時間を遡らせ、胎児が経てくる進化の過程にはクジラもいた。
「祥子ちゃん、ほんま気の逸らし方うまいわー」
 二人とも、前髪をハの字にして額に張りつかせ、湯舟から顔を出した。耳たぶをしたたるしずくが、京子のピンクトルマリンのピアスを光らせた。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-05(1)楢﨑古都

 

  睫毛の長い丸顔の女性アナウンサーと、六十を過ぎても独り身の男性アナウンサーの、間の抜けたやりとりが聞こえる。ベテラン女優と新人お笑いタレントの電撃入籍だとか、人気歌手グループの新曲プロモーションだとか。当たり障りのない、むしろくどいくらい好意的なコメントを交わす二人羽織りには、ときにうんざりもさせられるのだけれど、残り半分はわたしたちに均等に与えられる当たり前の日常、その延長線またははじまりの安心感でもあった。
 寝心地が悪いのと、なんだか肌寒いのとで寝返りを打つと、縮こまったからだにブランケットがかけ直された。
「京子」
 ぬくもりに、両腕の鳥肌がやわらぐ。眠い目をこすり、まぶたを開けると、いつかの夜みたいに京子の声がわたしの顔を覗き込んだ。
「あ、祥子ちゃん。ごめん、起こしてしもたか。よー寝てたから、も少しこのままにしといたげよ、と思てたとこなんやけど。起きるか? 寝るにしても、いい加減ここはしんどいやろ。ベッド移りい」
 うなずいて、わたしは起き上がる。横座りになり、立ち上がろうとして、足が攣ってしまった。ふくらはぎが硬直して、痛さに這いつくばってしまう。
「あららら、もしかして立てへんの。あちゃー、くうちゃんのせいやわ。ついさっきまで、祥子ちゃんのこと枕にしとったからなあ。ごめんごめん。ええよ、そのまま座っといて。ソファには上がれる?」
 わたしは何とかソファによじ登ると、ひじ掛けの部分を枕にして横になり、ブランケットをまとった。京子はまだ寝ぼけているわたしの姿を見て笑い、散らかっている昨夜の食べ残しや空き缶ゴミを片付けはじめた。
 わたしは、ぼんやりと目の前の京子とテレビの中のアナウンサーを見比べ、いったいどちらが本当に世の中の真実と近いところにいるのだろう、と考えてみる。京子は事実を体験し、アナウンサーは事実を読み上げた。それ以上でも、それ以下でもなかった。それどころか、大体においてわたしたちは、聞き流して終わってしまう視聴者でしかないはずだった。こちら側にいるわたしたちは、つねに真実なんて求めてはいないし、答えなんて生きてゆくのに何の役もたたないことの方が多かった。
 死んだ男が何者で、どんな理由があって、あの日あそこで死ぬことに決めたのか。そんなこと、わたしたちには見当もつかない事柄だった。クジラがどうして海の底で文明をもたなかったのか、なんて問いに答えが用意されていないのと同じことだと思っていた。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-04(5)楢﨑古都

 

 やがて、周回していたメスも去ってゆき、京子の手からは力が抜けた。自由になった腕をさすりつつ、京子のまぶたに手のひらを下ろす。京子は、追い込まれたクジラだったのだろうか。ブラウン管に照らしだされた暗がりが、しっとりと湿った肌の感触に息をひそめた。横顔が涙にぬれていた。
 眠ってしまった京子の前髪を寄せ、額にくちづける クジラが去った後の青い画面から発せられる光は、わたしを夜の底に一人置いてきぼりにさせられた気分にさせた。カメラの前にクジラは現れない。京子を起こさないよう気をつけて、リモコンに手を伸ばした。テレビの消音設定を解除する。
 低く透明な和音が長引き、鼓膜の周辺を不思議な音色がこだました。共鳴は波紋となり、時の間に海中をすべった。海の底からというよりむしろ、わたしたちを包む大気、海水そのものが共鳴し、旋律を発しているようだった。
 青い光に包まれて、思わず泣いてしまいそうになった。それは、クジラの歌う唄だった。踏み切りのイメージがよみがえる。メスを奪いあい、目的を果たす姿を見てしまった後だけに、鳴き声のもつ神秘性は特別なものを帯びて聞こえた。
 男は真っ白い布でくるまれて、遮断機のそばに横たえられた。男の目に、わたしはメスとして映っていたのだろうか。あの事故からしばらく、わたしの左胸にはくっきりと男の手形が痣となり残っていた。掴まれた不快感は下着を外すたび思い起こされて、わたしはあわてて見知らぬ男のからだにしがみついた。。
 毎晩のように不特定多数の男たちと抱きあった。不感症な自分の冷たさを隠すために、必死で相手のからだにくちびるで痕を残した。ひとつひとつに、わたしは声の代わりに舌を使い、誤魔化すために演じつづけていた。
 大勢の中のひひとり、という隠れ蓑が欲しくて、わたしはますますメスになり下がった。男たちはみな欲しがり、よろこんだけれど、わたしは少しも元に戻れなかった。早朝の車内から大小さまざまな景色の連なりを見渡すたび、わたしは建物の向こう側にある人々のつながりに加わりたい気持ちでいっぱいになった。
 集団にまみれ、男たちに媚を売って、わたしは顔もなく見分けもつかない人間になりたいと願っていた。そこに、わたしという人間の意思は必要なかった。黙ってついてゆけば、食べるものも、眠る場所も、みんな男たちが用意してくれた。わたしはただ、彼らの言いなりになっていればよかった。「こんなところに寝ていたら、やられてしまうで」
 夢うつつに、髪の長い、細っこい影が現れて、ずいぶん声の高い男だと思った。また殴られるか、蹴られるかするのではないかと怖くなって、わたしは今度こそやり返してやろうと思ったのだ。
「あばれんでも、くうちゃんは女の子をこんなとこに置いてきぼりになんかせえへんよ」
 クジラの唄は、死んだわたしをクジラにした。どこにいるの、と呼ぶクジラに向かって、わたしはここにいる、と泣いて答えたのだ。
 規則正しい京子の寝息がわたしの涙とまじりあい、二人の場所をしめらせていた。結局わたしは、膝の上に京子を寝かせたまま自分も眠ってしまった。遠くから、ずっとクジラの鳴き声が聞こえていた。それは子守唄よりも静かに、深く夜の底にこだましていた。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-04(4)楢﨑古都

 

  まるで人間みたいやんか、と京子が眉をしかめるのは、朝のテレビニュースやなんかで、クジラの集団座礁のことを集団自殺と言い換えたテロップを流していたりするからだ。クジラは自殺なんてしない、わたしたちがそう信じているにも関わらず。
 けれどもわたしたちは一方で、ああ、かわいそうに、なんて嘆息していながら、服を着替え歯を磨き、身支度を整えて家を出る頃には、座礁したクジラのことなどすっかり忘れてしまう。手の届かない位置にあるもののために、心を痛めている余裕まで、持ち合わせてはいられない。まとめて他人事として片付けてしまわなければ、わたしたちは毎日をまともにせいかつしてゆくことすらできない。
 テレビ画面に映るのは、いつだって自分の外側で起きた出来事に過ぎない。時間の経過とともに、忘れ去っていってしまうのも仕方がない。通勤、通学の満員電車が人身事故の影響で遅れたとしても、それは遅延証明書をもらうための理由でしかなく、わたしたちはそこに命の気配まで感じとってはいられない。それぞれに抱えた目前の悩みや問題があって、わたしたちは自分自身のことでいつだって精一杯なのだ。
 京子の体制はずるずるとくずれてゆき、いまはわたしの太腿の上に頭があった。吐く息が湿り気をもって、膝頭に吹きかかっていた。神経を集中させて、息をひそめなければ、たちまち見失ってしまいそうな空気のかたまりだった。
 一頭のメスをめぐって、数頭のクジラのオスが身体をぶつけあっていた。尾びれで激しく水しぶきを上げ、巨体を海面から飛びだしてライバルを威嚇する。メスは嫌がっているのか、お腹を水面へ向けてみせたり、浅瀬へ逃げてゆこうとしている。胸びれを高く掲げて、海面に叩きつけてみせもした。オスたちは突然、謀ったように彼女を取り囲み、下へ下へと追い込みはじめた。やがて、逃げられないよう周囲を固められたメスの元へ一頭のオスが近よってくる。重なりあうと、白いもやが立ちのぼった。
 動物たちの凶暴性は、自然界の摂理に組み込まれていた。生き物は子孫を残すことが第一前提にあるから、オスはメスと交尾することができて初めて、その生をまっとうしたことになるのかもしれない。陸へ上がって自殺する知恵を得るよりも、クジラが海の底で求めたものは、いったい何だったのだろう。
 メスを引きとめていたオスたちが、一頭また一頭とその場を離れてゆく。先ほどから京子に握られていた腕に、立てられた爪が刺さり沁みていた。痛みは、話されない赤ん坊の父親のことを案じさせて、声をあげることができなかった。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-04(3)楢﨑古都

 

 外国の、あまり広くはない砂浜だった。黒い流線型のかたまりが、何十体も波打ち際に打ち上げられ、並んでいた。それは、クジラの集団座礁だった。
 クジラは回遊の途中、病気や体力の低下、または浅瀬に指しかかると方向感覚を失ってしまうことがあるという。浅瀬では集団全体が距離感を勘違いし、誤って浜辺へと乗り上げてしまうらしい。一方、弱った個体を連れたクジラの群れでは、共に生きてきた仲間を見捨ててゆくことができず、解っていながら間違った方向へと一緒に泳いでいってしまうというのだった。
「そばを離れられへんから、みんな一緒にしんでしまう方を選んでしまうんかなあ」
 京子の言葉は、かすかに自らの死の匂いを醸していた。
 個体同士の絆が強く、ヒトにも近い感情をもつといわれるクジラ。もし、京子とわたしがあの踏み切り事故の直後にこうして出会っていたとしたら、いったいどうなっていただろう。つないだ手のひらの理由は寄りそう安心感ではなく、不安定な欲求にしかならなかったかもしれない。わたしたちはお互いにお互いを、道連れにしていたかもしれない。
「一緒にしねて、しあわせなんかなあ」
 京子は呼ぶことのなかった赤ん坊の名前でわたしを呼び、わたしは京子をママとさえ呼んでいたかもしれない。たとえ、望んで宿したわけではなかったとしても、重さは同じに違いなかった。わたしは生まれてから捨てられて、京子の赤ん坊は生まれる以前に流されてしまった。
 けれども、時間の影響力は知らぬ顔で死という焦燥を風化させ、一切の気力を萎えさせた。
 抱えた膝にあごを乗せると、持ち上がった服の裾に背骨がのぞいた。パッションフルーツとムスクの、甘酸っぱく深い香りがわずかに立ちのぼった。
「クジラは好きやけど、こういうところは嫌いやわ。動物のくせに、まるで人間みたいやんか。なんで、こんなことしてしまうんかな」
 クジラはなぜ、海の底で文明をもたなかったのだろう。ヒトに匹敵するくらいの高い知性を持ちながら、いったいわたしたちと何がちがっていたのだろう。
 太古の昔、一度陸へあがり、ふたたび海へ帰ってしまったのは、潮の流れが胎内に似て心地よく感じられたりしたからだろうか。人は生まれたら、二度と海へは帰れない。
 京子はからだを倒してわたしに寄りかかり、方に頭をもたげた。
 オーストラリアだかどこだかの浜辺で、同時に何十頭もの個体が打ち上げられて、瀕死の状態に陥っている。街の人々による懸命の救助活動もむなしく、クジラたちの死亡が確認されてゆく。いまさら、助けることもかなわない。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-04(2)楢﨑古都

 

 胃の中のものを全部吐きだすと、京子は顔を洗い、歯を磨いて戻ってきた。吐いた後の顔はいつも腫れぼったく涙目で、頬も赤らんでいた。濡れた前髪からこめかみにかけ、拭いそびれた雫が垂れていた。
「祥子ちゃん、これ食べる?」
 京子は決まり悪そうにカップ麺を手に取った。縁に乗せた割り箸を押さえて、いささか鼻をそらせながら湯気をかぐ。わたしは首を横にふって、いらない、と答える。口角を引き上げてみせたつもりだったけれど、うまく笑顔をつくることはできなかった。
「せやな」
 すぐにうなづき、京子は再びカップ麺を脇に押しやった。次に注意を向けられるのは、忘れられたころに誤って蹴りこぼされるか、その前に運よく目にとまり、片付けられるかのどちらかだ。
 簡単に折れてしまいそうな手首足首も、鎖骨の浮きでた胸元も、骨ばった腰回りも、みんな人差し指の直接被害を受けていた。お腹の中にいたはずの命を思いだしてしまうのか、京子は胃が膨れるのを極端に嫌がった。そしてわたしは、それをやめさせる術をもっていなかった。
 イルカの特集を見終わると、今度はクジラの番組を録画したビデオを京子はデッキに入れた。
 大海原に黒いかたまりが姿を現す。潮を吹き、頭から飛びでて、しぶきを上げた。ボートに近づいてきて、海面下から船上の人間を観察している。優雅に一頭で泳いでいるものもあれば、親子で寄りそい、仲間が見守っている光景もあった。小型のクジラたちはイルカと似て群れで泳ぎ、あの子たちはみんな家族なんよ、と京子は教えてくれた。クジラは口から吐きだした泡でネットを作り、囲い込んだオキアミをいっぺんに口の中へと流し込んだ。
 わたしは自分のカップ麺を食べ終わると、ソファを背にして床に座った。京子もクッションを抱え、ソファから降りてくる。手のひらがわたしの甲に重ねあわされ、指と指とのあいだにひしとしのび込んだ。
 触れている手首に線はなかった。けれど肘よりも上、Tシャツの袖で隠れる二の腕の辺りに、傷痕はあった。肌色のサインペンで間違って引いてしまったような染みが、皮膚の上に何十本も残っていた。断つためではなく、存在を確認するためだけに、京子はかつてこれだけの回数がひつようだったのか。暗がりの中で彼女の白さはいっそう青く浮きたち、わたしは思わず目をそらしてしまった。
「あほみたい」
 ふいに京子の言った言葉が、自分に向けられたものかと驚きふり返った。視線は画面の奥を見つめていた。

 

お題「#おうち時間

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

 

くじらの歌う唄-04(1)楢﨑古都

 

「クジラとイルカの違いって、何か知ってる?」
 京子は新聞をとっていなかった。代わりに、一か月分の番組表が掲載されている雑誌を買ってきて、隅々まで隈なくチェックしていた。目当ては動物の生態や自然紀行ものといった特集番組で、探してみるとこれが結構あるものだった。彼女はそれらを片っ端から予約録画し、仕事のない日に一度ならず二度三度と見直すほどの入れ込みようだった。
「イルカもクジラも、みんな一緒のクジラの仲間なんやて。違うのは大きさだけで、小さい方をイルカって呼ぶんよ」
ひときわくり返し見ていたのは、海の底の生き物たちを映した番組だった。マダガスカルやアフリカの大平原、オーストラリアのコアラたちを見ることは稀だった。
 まぶしい陽射しをうけ、何千枚もの光の鱗が海面に輝いている。一艘の船が、白い泡波を立てて走っていた。航跡の中をイルカの群れがからだをひねり、仰向けになったり、ターンしてみせたりしながら、じゃれあい泳いでいる。風に帆は大きく膨らみ、船は彼らの先導をうけてしぶきを上げていた。
 深夜、ビデオをまわすとき、京子は部屋の電気をつけなかった。テレビも消音設定にし、おなじ海の底を意図的につくりだしているようだった。画面が波の上から海中に切り替わると、部屋の四方の壁も青い波紋に揺らめいた。イルカたちがカメラの前を横切ると、遊泳はわたしたちの元にも影を落とした。
 遅い夕食をとりながら、京子はイルカやクジラの生態についていろいろと話してくれた。世界最大の大きさを誇るシロナガスクジラ、水族館で馴染みのバンドウイルカ、模様が砂時計に似ているのはハセイルカだった。クジラの回遊経路や生息地に至るまで、京子は驚くほど詳しかった。
「くうちゃんも、イルカかクジラやったらよかったのにな」
 食べかけのカップ麺を床に置き、京子はおもむろに立ち上がる。足はトイレへと向かった。今夜もきっと、喉の奥に指を突っ込むのだろう。京子は自ら隔絶した空間で行っていることに対して、わたしは気がつかないふりをしていてやらねばならない気がしていた。
 船首に押しだされる波に乗り、競争しあうイルカたちの映像に画面が変わる。無音の室内に、しばらくわたしはひとりきりになる。床に置かれたカップ麺は、数時間後にはすっかり伸びきって、捨てられてしまうことだろう。半分も食べ終えられない彼女の夜食は、一日二食しか食べないくせに、まともに完食された試しがなかった。
 京子は物を食べてはよく吐いた。枝豆だとか冷奴程度ならば一粒一口ずつ缶ビールとともに胃に落としたけれども、大抵の食事は消化を待たずトイレに流された。

 

【kindle ことことこっとん】

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ  

 

「くじらの歌う唄/メルヒェン」

「くじらの歌う唄/メルヒェン」