かなしくなったら、魚の気持ち

生まれ変わったら一頭のくじらになりたくて できれば水素原子くらいちいさくなりたくて かなうなら素数のひとつに仲間入りしたくて ひとだからさきおとといのことを後悔します おやすみはにー♭ 【Yoga Alliance US Teacher Training 200 修了(First class)】

「朝行く月-07(3)」楢﨑古都

 

  氷嚢を探して、いくつかの戸棚を開けてみる。場所を変え、洗面所も探してみたが見当たらなかった。仕方なくレジ袋を二枚重ねにしたものに氷を入れ、口を縛ってタオルで巻いた。漏れてしまわないか多少不安はあったが、頬にあててやると彼は自分でそれを頭の下に入れ、居心地を整えた。
 私はテーブルの上に置いてあった鍵を借り、財布だけ持って部屋を出た。踏んづけた靴の踵を坂の下で履きなおし、駅前まで走った。
 商店街の薬局で解熱作用のある風邪薬を、スーパーマーケットで追加の氷と、それから部屋に転がっていたものと同じ清涼飲料水を買った。自動扉を出て、ようやく焦っていた気持ちに余裕が生まれた。自分を落ち着かせるために、息を切らして走るのはやめ、早足で歩いた。冷たかった風が、いくぶん心地よく感じられた。
 部屋に戻ると、鍋に火を沸かし、おにぎりを沈めて煮詰めた。菜箸でかたまりをほぐし、お粥をつくる。味付けはおかかに溶き卵を落としただけで何も加えなかった。
 手の空いた隙に、シンクに溜まっていた使用済みの食器を片付けた。鍋のお粥は噛まずに飲み込めるくらいまでやわらかく煮込んで、洗い立てのお茶碗によそい、コップにそそいだ清涼飲料水とともに彼の元へと運んだ。
「順平」
 肩を揺すると、気が付いていたのか起き上がってくれた。
「ちょっとでいいから、お腹に入れて。薬も買ってきた」
「すまん」
 彼は消え入りそうな声で答え、三口ほどスプーンを舐めると、錠剤を飲み込んだ。
「ポカリも、ここに置いておくからね」
 一リットルのボトルを掲げてみせる。意識が朦朧としているせいか反応は薄く、返事は唸ったのか寝ぼけているのか判別できなかった。
 買ってきた氷は封を切らずにバスタオルで巻き、レジ袋と取り換えた。レジ袋の中身は、いまにもこぼれ出そうなのをかろうじてこらえていた。即席の氷嚢はいささか武骨だったが、彼は先ほどと同じように後頭部の納まりを整えると、すんなり眠りについた。

 

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ナラタージュ (角川文庫)

ナラタージュ (角川文庫)

  • 作者:島本 理生
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: 文庫
 
「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」

 

「朝行く月-07(2)」楢﨑古都

 

 校舎沿いの並木道と正門を通り過ぎ、豆腐屋の角を曲がって坂を登る。突き当たったところを左に折れると、そこに彼のアパートがあった。夏前に一度つれて来てもらったきりだったが、すんなり辿りつくことができた。
 冬晴れに布団を叩く音がこだましていた。会談を上りながら、洗濯を済ませてくればよかったな、と光のとけた空を仰ぐ。
 油性ペンで「児島」と書かれた表札は、お世辞にも達筆とはいえない辞退で、ところどころに書き重ねられた跡があった。
 指を置き、一瞬ためらってから呼び鈴を押す。二度、三度と続けて鳴らした。かすかな物音がして、人の気配が感じとれた。
「順平」
 居留守をつかわれたくなくて、恥ずかしげもなく外から呼びかけた。
 寝ているなら起こすつもりで、再度呼び鈴を鳴らす。今度は意地が、もう一度呼ぼうとする喉を黙らせた。
 一枚隔てた向こう側で何かが崩れる音がして、それから鍵穴が回った。ゆっくりとドアが開かれる。
「順平、あんた何してるの」
 待ちきれず、じれったさにノブを引いた。重たく横たわった空気のかたまりが、一歩踏み入れた途端に押し寄せてくる。いったい何度に設定されているのか、部屋はフル稼働の暖房にすっかり支配されていた。
「ちょっと、どうしたの」
 玄関にへたり込んでいる彼がいた。驚き、立ち上がるのを支えようと腕を回す。全身が熱を持ち、気怠くほてっていた。反射的に額へ手のひらをあてがうと、冷え切った指先が彼の体温にふるえた。
「大丈夫」
 かけた言葉は、発したそばから空回る。ベッドの脇でCDラックが倒れていた。自分の足でベッドまで戻った彼の、横たわるのを手伝って布団をかけてやると、首筋に青く浮き出た血管が見えた。
 散乱したCDケースにまぎれて、空になった清涼飲料水のペットボトルが転がっていた。充電の切れた携帯電話は脱ぎ捨てられたトレーナーとジーンズに埋もれ、カーテンは一切の光を遮断していた。整頓が行き届いていたはずの室内は、彼を中心としてすっかり秩序を失っていた。
 送風口から、絶えることなく温風が吹きだしてくる。これだけ暖房が効いていても寒いのか、布団の中で彼がタオルケットを体に巻きつけているのが分かった。
「いつからよ」
 何をすればよいのか咄嗟に思いあたらず、会話に答えを求めてしまう。
「月曜、」
 か細く枯れた声は、荒い息に負けていた。話しかけるのも気が引けるほどで、私はそれ以上何も聞けずに台所へ向かった。

 

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「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」

 

「朝行く月-07(1)」楢﨑古都

 

  ひとつずつラップにくるんで、手提げかばんにしまう。海苔は半分の長方形にして、ビニールのジッパーをとじる。忘れないよう、教材の入ったリュックサックの隣に置いた。
 空っぽの胃の催促にしたがって、朝食の支度をする。教わったキャベツの味噌汁と、納豆を釜の残りに添えた。
 この三か月で、私の食生活はずいぶん変わった。野菜からはいいお出汁が取れると、キャベツだけでなくにんじんやじゃがいいもを茹でた後のスープで、もう一品作る芸当も覚えた。卵焼きはまだまだ見栄えが悪いけれども、やろうと思えば気の利いたお弁当くらい持っていけるつもりだ。
 でも、ノートをとる以外に私にできることといったら少なかった。食堂で、水曜三限の彼女がお弁当を広げているところを見かけ、それが彼女の手作りか否かで延々語られた日には、もう手も足も出なかった。
 懐炉代わりの手提げを抱きすくめ、ほのかに立ち昇る香気を鼻いっぱいに吸い込む。寒さに強ばった顔が和らぐ。毛糸の帽子からはみ出た耳たぶにあたる風は冷たいが、腕の中のつながりは触覚のみならず温かかった。
 今日は彼に会えるだろうか。
「佳世子ちゃん」
 駅を過ぎ、商店街まで来たところで道の反対側から呼びとめられた。
「おはよう」
 私と彼とを引き合わせた友人が、手を振りこちらへ駆け寄ってくる。
「おはよう」
 私の胸元に視線を落とし、苦笑いを浮かべる。
「児島のやつ、来てなかったよ」
 手提げの中身が彼の朝食であることは、もはや周囲の誰もが知っていることだった。
「一限じゃ無理でしょ、昼頃には出てくるんじゃないの」
「最近見かけないけど、大丈夫なのか」
 単位なら問題ない。危ないのは、私の方だ。
 今週に入って、まだ一度も彼に会えていなかった。水曜日の昨日でさえ、彼は姿を現さなかったのだ。
「どうせ寝てるんでしょ、あの馬鹿」
 来なければ来ないで代返を頼んでくる彼が、いくら連絡をとってみても実はつながらなかった。
「言えてる。マイペースだからなあ、児島は」
 私は、授業に出てこない彼を心配して、不安がるような女じゃない。むしろ、会えないという状況に腹立たしさがつのってくる。今晩も、私は残ったおにぎりを夕食にするのだろうか。
 困ったやつだね、眉を下げた友人の顔がそう言っていた。
「じゃあ、俺バイトだから」
「うん、また明日」
 わたしはにっこり笑ってみせてから、友人に背を向けた。抱えていた手提げを片手に持ちかえる。歩調に合わせ、前後に揺らしながら歩いた。

 

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「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」

 

「朝行く月-06(2)」楢﨑古都

 

 二個目を手に取り、かぶりつく。寝癖は睫毛にもできるものだろうか。視線を落としても、上向きの毛先が伸びている。女の私が持っていないものを、ずいぶんたくさん持っている人だ。
「そういえば、立花さんと同じ名前なんだよね。話したっけ」
「知らない、そうなの?」
「うん、字は違うんだけとね。加えるに代返の代に子どもの子で加代子」
「ほかにもっとましな表現の仕方があるでしょう」
 言うと、エビフライはマネしないでね、と本気のまなざしを向けられた。
 彼は周囲に、私たちがなんとひやかされているか知っているのだろうか。通い妻を義務化しているわけじゃない。ママ代わりなんて、まっぴらだ。
「順平ってさあ、もしかしてマザコン?」
 首をかしげて、顔を覗き込んだ。
「あのなあ」
 横から蹴ってこようとするのを避けて、浮かせた足で仕返した。はずすだろうと思っていたのに、まんまと向こう脛に入ってしまい、平謝りした。痛がるのを苦笑いで茶化し、焦りをごまかした。
「ごめん」
 結局わたしは、彼に謝ってばかりいるのだ。

 

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「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」

 

 

「朝行く月-06(1)」楢﨑古都

 

 授業には出てこなくとも、おにぎりだけは食べにやって来る彼からお母さんの話を聞いたのは、昼休みベンチに並んで腰かけていたときのことだった。
「立花さんのつくるおにぎえいは普通だよね」
「なにそれ、嬉しくないんだけど」
 おにぎりのラップをといた彼に、巻かずに分けて持ってきた海苔を手渡すのを一瞬ひっこめる。秋口で、薄青の空には鰯雲が散らばっていた。
「いや、あのね、うちの母ちゃんがつくるおにぎりは、やっぱり普通じゃなかったんだなと」
「もち米つかってるとか?」
「それじゃあ、おはぎだよ」
「そうなの? え、だって米粒残ってるじゃない。もち米はつくんじゃないの」
 聞き返した隙に、海苔をさらわれた。
「立花さんって、ほんと面白いこと言うよね」
 殊に彼は、私が料理に関してとぼけた発言をするたび、隠しもせずくつくつ笑った。自分の方が恥ずかしいとでもいった顔をして、ここぞとばかり私をからかうのだった。
 私は自分でもラップをとき、海苔を巻いた。
 今日の具は、昨日実家から届いたばかりの野沢菜だ。母に、最近自炊をはじめたと電話で話したら、さっそくあらゆる付け合わせ食材を送ってきた。瓶詰めのねぎ味噌、いかの塩辛、漬物はわさび漬けからキュウリの古漬け、たくあん、かぶ、なすびとずらり顔を並べた。なるほ、出来合い好きの母らしい。実家の冷蔵庫には、つねにお新香の詰め合わせパックが鎮座していたことを思い出し、ほくそ笑んだほどだ。当分、おにぎりの具材に飽きずに済みそうだった。
「この野沢菜うまいな」
「おにぎりの話」
 彼はにやけてからこたえた。
「朝ごはんのおにぎりにさ、前日の晩に残ったおかずをつめるんだよ。天ぷらとか唐揚げとか肉じゃがとかさ、それはもう何でも。おでんのがんもが入っていたこともあったな」
「それ、おいしそうなんだけど」
 想像してみて、彼のお母さんに感心した。
「汁気とかどうしてんの」
「水分飛ばしてある」
「食べるのに時間かからなくていいかも」
「わざわざつめる必要ないだろ、エビフライなんか、しっぽ飛び出してるんだぞ」
「順平が寝坊するからでしょ。ご飯とおかずを片手でいっぺんに食べられるじゃない。お母さん、考えたわね」
「俺のせいっすか」
「そうよ、遅刻魔」
「今日はちゃんと来てるじゃんか」
「不純な動機でね」
 けしかけたら、下手に出てきた。
「友だちになってきてよ」
「人に頼るな、もっと社交的になるのね」
「母ちゃんみたいなこと言うのなあ」

 

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「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」

 

 

「朝行く月-05(2)」楢﨑古都

 

 大体、成人男子の活力が日に一、二食で補えるはずがないのだ。細身の体は運動部で鍛えたはずもなく、ただ単に栄養不足がたたっているのではないかと本気で心配させられるほど、勢いのある食べっぷりを見せつけられた。
 だから、自分の分を確保するという名目で、あらかじめ二人分握るようになった。不経済だとは思いつつ、毎朝米を研ぎ、炊く。小分けにして冷凍したものを解凍するのは、どうにも気に食わなかった。手首まで無数の米粒に埋もれていると、なぜだか落ち着いた気持になるのも理由のひとつかもしれなかった。
 鮭やツナを、朝からおにぎりの具にするためだけに焼いたり、マヨネーズと和えたりするようになった。友人たちはおもしろがってからかいもしたが、それは到底お門違いな話で、彼は涼しい顔をしておにぎりを頬張りつづけた。
 彼には、好きな人がいた。
 電子レンジ以外の調理器具を使えるようになっただけでも目覚ましい進歩といえるこのわたしが、本屋で炊き込みご飯のページを立ち読みするようになったのは、彼が出欠もとらない教職科目にかかさず出席していることに気づいたからだ。
 学部も学年も違う、いまだ話したことすらない彼女に会いたいがためだけに、彼は水曜三限の授業にあらわれた。
 どうして隣に座らないの、と鎌をかけたら、冗談のつもりが図星で簡単にぼろが出た。調子づいて彼女の名前やら、きっかけやらを聞き出していった。はじめは口ごもり、返事も曖昧だったのが、
「どこが好き、とかゆうんじゃないんだよ、雰囲気とか、たたずまいとか、そういうの、わかる?」
 おにぎり片手に話す彼のことを、心の底から癪だと思った。
 彼には好きな人がいる。
 だから、毎朝おにぎりを作って持っていくことに決めた。
 水曜三限だけは、彼の隣の席には座らない。

 

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「朝行く月/水に咲く花」

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「朝行く月-05(1)」楢﨑古都

 

 二度寝のまどろみは、深く底までは落ちてゆかない。意識の片隅で甘いにおいをかいでいる。
 ぼんやりした頭の中で、今日つめる具について考えをめぐらしていた。焼き鮭にしようか、昆布にしようか。梅干はおとつい入れたばかりだから、ほかのものにしよう。そういえば、このあいだの塩昆布はなかなか好評だった。
 炊き上がりのアラームを目覚まし代わりに起き上がる。暖めておいた室内は、立ち昇った湯気の香りと相まって、ほのかにこもっている。カーテンを引くと、抜けた青空が朝日をつれて射し込んだ。
 炊飯器の蓋を開けると、いっせいに蒸気が立ち昇った。むせ返りそうになるくらいの湿った芳香が、顔面を包み込む。濡らしたしゃもじで釜の中を切るように混ぜ返した。混ぜて空気に触れさせることで、一粒一粒の照りが増し、食べたときの味も均一になるのだった。
 お茶碗にサランラップを敷き、白米を軽く一杯よそう。くぼませた中央におかかを包んだ。火傷しそうな熱さに手のひらが真っ赤に染まる。爪の血色もみるみるうちに鮮やかになった。
 握りすぎないよう、まとめるくらいの気持ちで三角を形づくる。ビニールにくるまれた正三角形を目指しているわけでもないが、以前はサランラップに蒸された海苔が、つぶれた米粒のかたまりにへばりついていた。野球ボールどころか、泥団子だった。
 わたしが昼食におにぎりを持参するようになったのは、米を研ぐ彼の姿に見とれてしまったからだ。
 整理整頓、炊事洗濯は完璧にこなせる一面があるにも関わらず、彼の生活サイクルは不規則そのものだった。当然、朝食は抜いて登校してくる。わたしがおにぎりを持っていくようになった途端、彼は校内ですれ違うと、否応なしに昼食を横取りしていくようになった。

 

今週のお題「卒業」

 

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「朝行く月/水に咲く花」

「朝行く月/水に咲く花」